「ねねの次に茶々が気に入っている」と書いた秀吉

ねねの心配を和らげるかのように「ご安心ください」という言葉を連発しています。そして、「淀の者」として茶々が出てくる次の部分で締めくくられています。

説明したようにここに長く陣取ることになりますので、そのため、淀の者を呼びたく思います。あなたより、しっかり指示をだして、前もって用意をさせてください。あなたの次に、淀の者が自分の気に入るように親切に扱ってくれますので、どうか安心して召し寄せてください。淀へも、あなたからの指示で、こちらに呼んでください。
我々は年をとりましたが、年内に1度は、そちらに参り、大政所にも若君にもお会いしょうと思っていますので、どうかご安心ください。
(原典は『豊大閤真蹟集』#24)

長期戦になるので、茶々を小田原に呼んでほしいというのです。ねねからもよく言い聞かせ、前もって準備をさせるように、と。ねねの次に茶々が気に入っているので「派遣してほしい」。ねねの指示で人を送るように、と。つまり使者、侍女などを陣中に送っていましたが、ねねは茶々を送っていなかったのです。この手紙で、秀吉は名指しで茶々を小田原に送るように言っていますが、ねねに気を遣ってあくまでも「ねね一番だよ」と書いてから茶々をよこすようお願いしています。

豊臣秀吉書状 おね宛(徳川美術館蔵)『Google Arts & Culture』より

さらに、自分も年をとったが、今年中に一度はねねのもとに戻り、実母と若君に会うようにするので、安心なさってくださいとねねに言っています。手紙は1590年4月13日のものなので、数え年でねねはおよそ43歳、秀吉は55歳の頃です。ちなみに、茶々は1569(永禄12)年誕生説にのっとると、数えで22歳でした。

茶々が最初に産んだ男子はねねの下で育てられていた

若君とは、茶々が産んだ秀吉の男児、鶴松のことです。1589(天正17)年5月27日生まれの鶴松はねねの管理下にありました。その証拠に、鶴松に宛てた手紙では、秀吉がねねと茶々を「両人の御かゝさま」と呼んでいます。茶々が遠くへ出かける時の面倒をみるだけではなく、正式には、鶴松は正室のねねの子供とされていたのです。

さて、小田原では、かなりの長期戦を見据えていたようで、4月の時点で「年のうちに1度はねねのもとに帰る」と言っています。一夫多妻制の戦国の世の中、人間関係・家族関係は、現代の常識とはかけ離れたところにあるようでいて、現代人が共感できる、普遍的なところもあったようです。心配するねねをなおざりにしない、優しい一面が残る夫婦のやりとりが見て取れます。