教育とは、知識を教え込むのではなく引き出すこと

天才は教えて天才にするのではなく、可能性として眠っているものを“引き出す”のである。この点で、英語で教え、教育するのを、educate(元義:ひき出す)と言うのがおもしろい。外から与えるのではなく、内に持っているものを引き出してやる――それが教育だというのは、外から知識などを教え込むのを教育と考えるのと比べて、進んでいる、ということができるであろう。

自然知能を引き出すのは、時間との競争である。ぐずぐずしていれば、取り返しのつかないことになる。大変残念だが、そういうことを考える思考力がなかったのだから、しかたがない。

みんながしている、というので間違ったことを続けてきたのである。人類は進化する機会を得ることができなかった。

19世紀、新中流となった人たちが公的初等教育を考え、小学校をつくった。それはいいが、6歳になるまでは、放っておいたのである。

子供が自分の足で通学できるようになるまで、学校教育はしない、というのである。子供の能力を伸ばすかどうかという差し迫った情況にはなかったのである。

生後6カ月ごろから始め、4歳で基礎を終了

小学校へ入ってくる子供は、自然知能の賞味期限の切れかかった子供たちである。生まれた時持っている天賦の能力、つまり、子供の天才を引き出すことのできる教師などいない小学校になったのは是非もない。

明治5年、どさくさにまぎれてつくられたわが国の小学校が、ともかく知識を与える任務は果たすことができたのは奇跡で、旧師範学校が、天下の英才を集めて先生にしたからである。

しかし、いかなる優秀な小学校教師も、賞味期限の切れた子供の知能を育てることはできなかった。

子供の自然知能を引き出すには、生後6カ月くらいから始める必要があり、4歳くらいまでに基礎をおえなくてはならない。それができて三つ児の魂ができれば天才的な子供が、いまの何百倍も多くなるであろう。

そういうチャンスを逃したのは、難しいことは大きくなってからという、ばかげた形式主義のせいである。