親がことばを教えることがもっとも大切
小学校は少し学び、中学は中くらい、高校は少し高級なことを学ぶが、いちばん高等なことは大学で学ぶ、と勝手にそう決めて、呼ぶ名も、小・中・高・大と格差をつけて喜んだのはいかにも幼稚である。
本当の早教育は生後6カ月くらいから始めるのは前述のとおりである。教えるのはまずことば。これは心掛ければかなりうまくいくし、実際に成功したと思われるケースも少ないながらある。
こういうのが常識のようになれば、自然知能が高まること疑いなしである。ただ、教える側にしっかりした言語的素養がなく、自分の方言を恥じながら都会のことばをしゃべっているようでは心細い。初めてのことばをうまく引き出してやることのできる能力を身につけることが、親のもっとも大切な資格である、というのが常識になれば、世界に向かって誇ってもよい。
「自分はもう手遅れだ」と嘆かなくてもいい
頭のよい、ことばの上手な子供は、だいたい母に当たる人の力によって育つのである。女性が多弁、能弁、声質も多様であるのはダテにそうなっているのではない。子供のもっともよいことばを引き出すためである。
ことばだけでなく、すぐれた音楽をきかせ、すぐれた絵画に触れさせておけば、それが早教育になって、子供の中で眠っている天才の目を覚まさせる。環境が子供の知能、才能を引き出す。昔、中国の孟子の母親が、子供の教育のために、住いを三度替えた「孟母三遷」の故事は、子供の教育を考えると、たいへん斬新な思想を代表していたことがわかるのである。
自然知能を伸ばす教育が手遅れになったら、年齢に関係なく、自然知能を伸ばすことを考えるべきである。趣味の仕事が有効なこともある。中年になってはじめた俳句によって、人間を変えることができるような例を歴史はいくつも残している。
スポーツも人間の能力を高める効果がある。競争しないとおもしろくないというのは常識的。
また、ひとり散歩することによって、考える人間になることも自然知能の昇華につながる。
キカイ的人間になりたいのなら別だが、人間らしい人間として生きるには、持って生まれた自然知能を高めなくてはならない。