7月16日に原爆実験成功、米英が手のひら返し

この文書の現物はアメリカ国立第2公文書館にあるが、おどろくなかれ、署名は自分のものもチャーチルのものも、トルーマンがしている。

実は、スターリンは、降伏条件のソ連案を携えてポツダムに来ていたのだが、トルーマンもチャーチルも、それについて取り合おうとはしなかった。会議中の7月16日にアメリカ・ニューメキシコ州のアラモゴードで原爆の実験に成功したので、英米首脳がそれを知った7月17日以降は、もはや日本を降伏に追い込む上でソ連の助けはいらないと思うようになったからだ。

ヤルタ会談中のヨシフ・スターリン(写真=Abbie Rowe, U.S. National Park Service/UK Government artistic works/Wikimedia Commons

その17日に両国首脳は、スターリンからソ連は8月15日に日本との戦争に入ると聞かされてたしかに喜んだのだが、原爆が相当威力のあるものだと知って手のひらを返した。

翌日にスターリンが「日本の天皇が降伏を求める電報を送ってきている」と両国首脳に告げたときも、彼らはこの話にのってこなかった。のれば、スターリンと日本の降伏条件について話し合うことになり、ソ連を日本の戦後処理に参画させることになってしまうからだ。

「われわれはソ連を戦争に参加させたくなかった」

彼らは、この段階では、ソ連には日本との戦争に加わってもらいたくないと思っていた。ヤルタで協議した「極東密約」(ソ連の参戦と引き換えに南樺太、千島列島、東清鉄道などを引き渡すとしたもの)が効力を持つことになるからだ。彼らは、これ以後、ソ連の参戦をできるだけ先延ばしし、日本の降伏を早めようとし始める。それによって、参戦させず「極東密約」を無効にしようとした。

このようなわけで、英米首脳はスターリンと日本の降伏条件について、戦後処理について話し合うことをせず、事前に用意していた「日本の降伏条件を定めた公告」をそのままプレスリリースしてしまった。だから、文書の現物にスターリンの署名がないのだ。

ソ連外相のヴャチェスラフ・モロトフが7月29日に対日参戦の要請を文書で出してほしいと要求したときも、米国務長官のバーンズは言を左右にして応じなかった。

トルーマンはのちに回想録で「米国と連合国は、ソ連を日本との中立条約に違反させる義務を負っていない」と書いている。バーンズはもっと直接に「日本の降伏が近くに迫っており、われわれはもちろんソ連を戦争に参加させたくなかった」と自伝に書いている。(拙著『原爆 私たちは何も知らなかった』新潮新書 参照)