ポツダム会議で実のある議論はなされなかった

スターリンは、イギリスの物理学者クラウス・フックス(元の国籍はドイツ。マンハッタン計画にイギリスから派遣されていた)などから原爆開発の情報を得ていたし、トルーマンからも7月24日に「われわれは異常なまでの破壊力をもった新兵器を持っている」と原爆の所有をほのめかされていたので、英米首脳の心変わりの理由を察することができた。

彼らは、原爆で日本を早期に降伏に追い込んで、ソ連に参戦させず、日本の戦後処理の枠組みに入れず、日本に関わるあらゆる権利から遠ざけようと思っているということだ。

こうしたことからポツダム会議は大したことも決めないまま、唐突に打ち切られた。とりわけトルーマンは、原爆を使用した後のほうが、はるかに有利な立場でソ連やほかの連合国と話し合いができると思っていた。事実、日本や朝鮮の戦後処理など重要な案件に関しては、およそ1カ月後の1945年9月11日から開催されたロンドン外相会議で話し合われることになる。

これまでポツダム宣言は、カイロ宣言やヤルタ宣言のようなものだと考えられてきた。つまり、カイロやヤルタで首脳たちが話し合って決めたものを宣言したものだということだ。だが、これまでも述べてきたように、ポツダム会議で実のある議論はなされなかった。

「われわれ」に入らないソ連は日本侵略を開始

英米首脳は、さして話し合いもせず、あらかじめ用意していた「日本の降伏条件を定めた公告」をスターリンの同意を得ることなく発出した。ソ連から見れば、同意を得ることなく出された「降伏条件」なのだから自分はそれに縛られないということだ。

このことはとくに公告の第8条に関して重要な意味を持つ。この条項は降伏後の日本の領土に関するもので「日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国、並びにわれわれの決める小さな島に限定される」となっている。つまり、本州4島以外の小さな島を決める「われわれ」に、署名していないソ連は入っていないのだ。

ということは、この降伏条件は、日本が受諾しても、英米などソ連を除く連合国と日本の間では有効でも、ソ連に対しては有効ではないということになる。たとえば、英米が千島列島を日本に残すと決めたとしても、ソ連はその決定に拘束されない。それどころか、なんら合意がないのだから、北海道や東北まで侵攻することさえできる。すべては、「日本の降伏条件を定めた公告」とは関係なく、その後の英米とソ連の軍事的な力関係で決まるということになる。事実、そうなった。

8月9日早暁、ソ連は日本侵略を開始した。つまり、8月6日の広島への原爆投下のあと8月9日の長崎への原爆投下の数時間前だ。