攻め入る秀吉軍に「勝家の切腹の仕方を見て後学にせよ」

北庄城は石垣を高く構築し、天守は九重の高層であり、そこへ勝家は200人ほどで籠城した。城内は狭く、大軍で攻め寄せれば、互いの武器によって手負い・死人がたくさん出ることが予想されるので、精兵を選び、天守へ刀剣のみで突撃させたところ、勝家は日頃から武辺を心掛けている武士だけに、7度まで切って出て戦った。しかし、防御できず、天守の九重目まで上がり、秀吉軍に言葉をかけ、『勝家の切腹の仕方を見て、後学にせよ』と呼びかけた。心ある侍は涙を流し、鎧の袖を濡らし、あたりはひっそり静まり返った。勝家は、妻子をはじめ一族を刺殺。勝家に最も親しい八十人余りの者が切腹し、午後3時頃に全員が死去した。

勝家の最期が手に取るように分かる文面であり、文芸作品のような記述である。

その最期については、フロイスの書簡にも触れられている。

歌川豊宣作「新撰太閤記 柔能勢剛」(部分)[出典=『刀剣ワールド財団』(東建コーポレーション株式会社)]

秀吉軍は城から陽気な歌声が聞こえてくることに驚いた

彼はすでに60歳になるが、はなはだ勇猛な武将であり、また一生を軍事に費やした人である故、広間に現われると彼に侍していた武士たちに向かって、予がここに入るまで逃れてきたのは武運によるものであって、予が憶病なためではないが、もし予の首が敵に斬られ、予と汝らの妻子や親戚が侮辱を受けるならば、我が柴田の名と家を永久に汚すこととなる故、予はただちに切腹し、この身は敵に発見されぬよう焼かせるであろう。もし汝らに敵の赦しを得る術があるならば、その生命を永らえさせることを予は喜ぶであろう、と簡明に語った。

(中略)城の各部屋と広間にはすでに沢山のわらを積み、戸や窓もことごとく、堅く閉じ、城を包囲する敵に向けて城内から銃を一発も撃たなかった。城外の兵士らは内からまったく武器の音がせず、陽気な歌声が盛んに聞こえてくることに驚いた。事ここに至って柴田は藁に火薬を撒き、家屋が燃え始めると誰よりも早く信長の姉妹で数カ月前にめとった妻とその他一族の婦人たちを殺し、続いて短刀で己れの腹を十字に切り、その場で息絶えた。他の武士および彼と共に城内にいた残る人々も皆、同様にまず己れの愛する妻子を殺した。

(中略)羽柴やその他の敵に城内で起こったことを完全に知らせるため、柴田は死ぬ前に諸人から意見を徴した上で、話術に長けた身分ある老女を選び、右の出来事のいっさいを目撃した後、城の裏門から出て敵に事の次第を詳しく語らせた。
こうして、信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人がこの地で滅び灰に帰した。