チケット即完の試合を「最悪だった」と私が考えるワケ
1997年10月11日。「PRIDE.1」が開催された。
当初、PRIDEは一回やれば十分だと考えていた。実現にこぎつけた髙田延彦対ヒクソン・グレイシーの一戦は大きな注目を集めたものの、私の個人的な評価としては、最悪だった。
チケットはもっと売れ、地上波で放送されて、髙田さんがヒクソンに勝つ、というのが、私のなかでの成功イメージだった。しかし結果は全く逆で、大会後は穴があったら入りたいくらいの恥ずかしさで「自分は何てことをしてしまったんだ」と茫然自失していた。
PRIDE.1の時は、私自身に経験値が全く足りていない状態ながら、自らリスクを背負って興行を打った。それもゼロから1をつくりだしたわけだから、自分の想像していた目標やイメージとはほど遠かったのも当然と言えば当然だ。
今と比べると、当時は格闘技のコンテンツをつくってビジネスにするということに対して、幼稚な知識や経験しかないにもかかわらず、無茶をしていたこともあり、これをビジネスとして長く続けていくという感覚はなかった。東京ドームで1回限りの大会を開催することで、いくらか利益が出ればいい。そのくらいに思っていたのだ。
VHSの売り上げは1億円以上
ところが、そんな私の評価と落胆とは裏腹に、終わってからの反響は想像以上にすごかった。周囲からは「ぜひもう1回やってほしい」と言われ、ビジネス的視点で物事を捉えている人たちからも、「こんなにすごいことになっているんだから、次もやるべきだよ」と背中を押された。そして何より、数字がすべてを物語っていた。
パーフェクTV!(現・スカパー!)に30万人しか加入していない時代に、PPVのチケット販売数は3万件を超えた。PPVという言葉すら浸透していなかったにもかかわらず、である。また、メディアファクトリー(現・KADOKAWA)から発売した、1万円のVHSは1万本以上売れた。
こうなると、いろいろな人にお世話になって実現させたからには、第2回大会をやらないわけにはいかなかった。K-1やF1と同様、「ナンバーワン」のつもりでつけたPRIDE.1の「1」は、「第1回」という意味に取って代わられ、結果としては通し番号が入るナンバーシリーズとして続くこととなった。