「保守派vs.リベラル派」という対立軸は無意味になる

2020年代後半からの政治的な対立軸は、「左右」ではなく「上下」になる。

2020年代後半からは、この国の争点は政治的にも大衆的にもメディア的にも「社会保障費による社会経済の持続可能性」にフォーカスされていく。イェール大学の経済学者・成田悠輔氏が巻き起こした「高齢者の集団自決発言」に端を発する騒動や論争は、その小さな予告編だったにすぎない。

ここからの数年間で、旧来的な政治的イデオロギーの対立「右派vs.左派」はその意味をどんどん失っていく。上述したとおり、右派も左派も「社会保障費による社会経済の持続可能性」の論題においては、平時の対立などどこ吹く風で手を取り合って「お前もいずれは高齢者になるのだから(社会保障を守れ)」で一致団結するからだ。

下の世代のために(かれらが子を産み育てたり、画期的な創造性を世に送り出したり、新しいチャレンジをしたりするような、広い意味での希望を日本に対して抱けるように)、上の世代の「特権」を自分がそれを得られる順番がまわってくる前に切り崩すことに同意するのか、あるいは上の世代の側に立ってせめて自分の番だけでも“フルスペックの社会保障”が維持されることを望むのか――その政治的判断をめぐって、世の中は二分されていく。

写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです

若い世代から見れば保守もリベラルも一緒

若い世代からすれば、自分たちに重くのしかかる社会保障の負担に対する異議申し立てをしたときに「お前もいずれは年寄りになるのだから」とか「お前の祖父母にも同じことが言えるのか?」といった良心や道徳性に訴えるトーンで現状を追認しようとする点では、保守派もリベラル派もまったく同じ勢力に見えている。SNSなどで保守派とリベラル派が外交や歴史問題や人権問題や表現の自由などでいがみ合っている様子は、それこそ若い世代からすれば(肝心な部分ではどちらも問題から目をそらして自己保身に走るので)薄っぺらい茶番をやっているようにしか見えないだろう。

SNSにかぎらずメディア・言論界を見渡しても同じことだ。平時において自由がどうの人権がどうのと訴えていたリベラル派はコロナで軒並み「自粛要請」に賛同して自由や権利を軽々と政治権力に“自主返納”してその信頼を大きく損ねてしまった。一方の保守派は保守派で、国を存続させるためにもっとも重要な若き将来世代の生活を考えることもなく、かれらの社会生活に暗い影を落とす社会保障費の問題にも(遠からず自分も年を取ってご厄介になるのだからと)なにも言い出せなかった。勇気ある提言者が現れたときには左も右も手を取り合って提言者を取り囲み「ナチスの再来!」とバッシングを浴びせた。