天下をとる絶好の機会

『信長公記』を読んでいくと、信長は、確かに執念深く怒りやすいところはあったことは分かる(しかし、故なくして怒るのではなく、しっかりとした理由はあったが)。それとともに、家臣に暴力を振るうような人間ではないことも同時に読み取れるのである。

信長が光秀に暴力を振るったことが本能寺の変の要因となったとする説を唱える研究者がいるが、私は以上の理由から折檻説には否定的だ。もっと他の理由があると考えている。

光秀が起こした本能寺の変は、事件後の光秀の対応を見ても、半年前や数年前から計画されたようなものではないだろう。信長・信忠親子が京都にいる、また織田家の諸将は遠方という状況を狙って突発的に起こしたとみて良いと筆者は考えている。

ちなみに『信長公記』は、光秀は「信長を討ち果たし、天下の主になろう」として挙兵したと書く。天下の主になりたい、つまり野望説を採用している。

信長と対面した宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』においては、光秀のことを「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」と記している。

光秀の武功については、信長も「天下の面目をほどこした」(『信長公記』)と称賛している。織田家の生え抜きでもないのに、ここまで出世したということは、秀吉と同じく光秀も只者でないことを示している。

時機を窺い、信長を急襲し、自らが天下の主となる野心を抱いたとしても不思議はない。怒りに任せての復讐ではなく、天下の主となる好機とみて、光秀は挙兵したと筆者は考えている。

本能寺 本堂(画像=+-/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

光秀の悲惨な最期

本能寺の変で信長を討つと同時に、光秀は、都にいた織田信忠(信長の嫡男であり、後継者)を二条御所に襲撃して、これを自刃に追い込む。信長・信忠親子を殺し、都を押さえた後、光秀は近江国坂本城に入り、近江を平定せんとした。

6月8日には安土をたち、都に戻る。光秀は、親族の細川幽斎(幽斎の子・忠興に、光秀の娘・玉が嫁いでいた)を味方に付けようとしたが、幽斎父子は信長への弔意を示し、光秀の要請には応じなかった。

そうしている間にも、織田重臣・羽柴秀吉は本能寺の変を知り、出征先の中国地方から舞い戻ってきた。主君の仇・光秀を討つためである。明智軍と秀吉軍は激突(山崎の戦い=6月13日)するも、明智軍は敗北。光秀は逃亡の途上で、落武者狩りにあい、落命したと伝わる。

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