「更生」という言葉を口にできる状況ではなかった

受刑者には暴力団員も多く、中にはジロジロと睨みつけてくる者もいたという。入口さんは恐怖を覚えたが、ここでなめられるわけにはいかない。「負けるか、コノヤロー」と気合いを入れ直したという。その身体検査自体、「新米刑務官を試す刑務所の“洗礼”だった」と入口さんは振り返る。

それからも気の抜けない日々が続くことになった。先輩たちの厳しい指導の下、工場や夜間の勤務では常に緊張を強いられた。実際、刑務官になったばかりのときには、非常ベルが鳴って駆けつけると、受刑者同士が血まみれで喧嘩していることもあった。所内の秩序を維持することが最優先事項で、とても「更生」などという言葉を口にできる状況ではなかったという。

「刑務官としての本分というのは第一に、受刑者に規則を守らせ、逃走させず、自殺を起こさせない、といった秩序維持ですね。楽しいことっていうのは、まずない現場ですよ。新人の頃に『不快の職場だということを肝に銘じろ』とまで教えられました」

当初は「一人でもいいから真人間にしてみせる」と大きな夢を抱いていたが、過酷な現場の中で考える余裕はなくなった。そして、出所後に数年して、再び刑務所に戻ってくる受刑者を見るうちに、その夢は次第にしぼんでいったという。

写真=時事通信フォト
大阪刑務所(=2007年6月2日、大阪・堺市)

受刑者は「誰にも迷惑をかけていない」と言った

そんな中でも再び情熱を燃やすきっかけになる嬉しい出来事があった。刑務官として歩み始めてから4年が経った、1985年のこと。入口さんは、新しく刑務所に入ってきた受刑者を教育する「考査工場」に配属された。

このとき、覚醒剤取締法違反で懲役1年あまりの受刑者・坂東(仮名)が入所してきた。「自分の金でシャブ(覚醒剤)を買って自分で使ったのだから、誰にも迷惑をかけていない」という受刑者に、入口さんは「無駄口を叩くな」と戒めたが、坂東は反発的な態度を改めようとはしなかったという。

ある日、その坂東宛てに、刑務所の外にいる妻から手紙が届いた。中には子どもからの便箋も同封され、「お父ちゃん、病気まだですか?」と書かれていた。そこで入口さんは、坂東を呼び、手紙を手渡し「これでも誰にも迷惑をかけてないと言えるか?」と尋ねた。坂東は手紙を読み進めるうちに、涙を流し始めたという。