「帝都復興事業」がインフラの基礎になっている
大正13年から足かけ7年にわたった「帝都復興事業」の柱は、道路建設とそれにともなう土地区画整理でした。
焼失区域には、22メートルから73メートルの幅の幹線街路だけで大小117キロにもわたって敷設されました。街路の幅員は22メートル以上と定められましたが、将来地下鉄を通す可能性があるエリアは27メートル以上と決めました。
当時はまだ銀座線の上野―浅草間の工事が着工しただけ。ほかの路線はすべて戦後の開業です。現在、「帝都復興事業」で整備された道幅27メートル以上の道路の下には、地下鉄が走っています。こうした復興事業が約7億円……現在に置き換えると約4兆円もの予算を費やして行われたんです。
――いまも「帝都復興事業」の恩恵にあずかっているわけですね。
そうです。「帝都復興事業」は100年後を見据えた街づくりだった。現に、今年で関東大震災から100年が経ちますが、幹線街路や公園以外にも多くの橋梁などいまも使われているインフラはたくさんあります。まさに都心部は今も「帝都復興事業」に支えられているのです。
隅田川に架かる橋が美しい理由
隅田川に架かる橋だけを見てみても、永代橋、清洲橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋が現存しています。橋梁の建設で特筆すべきは、耐震性だけではなく「美観」が重視されたこと。
関東大震災発生から昭和天皇が臨席した昭和5(1930)年の「帝都復興祭」までを丹念に追った『帝都復興史』にも〈橋梁の美観〉についての記述があります。〈すべて同じ型にすべきでない。それぞれの橋が特色を出して美しさを競い合うべきだ。ただ安っぽい装飾を避け、飽きがない上、空が必ず見えるように細心の注意が払われている〉という内容が記してある。
いまも隅田川を船で遊覧すると、橋梁のひとつひとつに目を奪われるでしょう。品格があり、橋が街の風景に調和しているからです。そこが、戦後の建築物とは違う。
日本で公共構造物について、大規模かつ真剣に価値尺度を美観に求めて検討した例は、おそらくあとにも先にも「帝都復興事業」だけだと思います。
ひるがえって、いまの東京の街づくりには100年先を見通すビジョンは感じられません。10万人以上が犠牲になり、急を要する首都復興おいて、なぜ、これだけ丁寧な物作り、街づくりができたのか……。いまこそ「帝都復興事業」について改めて考えてみる必要があると思うのです。
(第3回に続く)