空襲は「千載一遇のチャンス」だった
――関東大震災後に行われた「帝都復興事業」により、東京は耐震、耐火で品格のある都市に生まれ変わりました。にもかかわらず、100年後の現在、なぜ、東京は首都直下地震におびえなければならないのでしょうか。
それは戦後復興に失敗したからです。
関東大震災後の「帝都復興事業」は焼失した地域に限られて行われました。裏を返せば、火災が発生しなかった郊外は手つかずのまま放置されたのです。
都市化を見据えて区画整理を実施した先見の明がある首長や地主もいましたが、ごく一部にとどまりました。
大半の地域では道路などの整備が行われず、人口が増え、木造家屋の密集地帯が広がっていった。そうした密集地帯が太平洋戦争で空襲を受け、甚大な被害を受けた。
太平洋戦争では、東京は関東大震災を上回る面積が焼失しました。戦後、関東大震災後の「帝都復興事業」のような100年後を見据えた街づくりが行われずに現在にいたってしまっているのです。
戦後「東京戦災復興計画」が策定されたが…
――関東大震災から終戦まで23年間しか経っていません。23年前にできた「帝都復興事業」のようなプランを戦後に実施できなかった原因はどこにあるのですか?
東京都にも「帝都復興事業」のようなプランはあったんですよ。1945年3月9日の東京大空襲後、戦争に勝つにしても負けるにしても東京の復興は急務だと内務省が復興計画を練り始める。そうした動きのなかで、「東京戦災復興計画」を策定したのが、都市計画家で東京都都市計画課長の石川栄耀です。
「東京戦災復興計画」の特徴は、市街地の外周に緑地地域をつくり、市内には河川に沿って公園緑地を整備し、交通、防災、保健、景観上の観点から幅100メートル、80メートルという植樹帯を持つ広い街路を敷設しようとしたこと。
都の都市計画課が作成した都民への啓蒙映画「二十年後の東京」では〈新しい時代にふさわしい、新しい形の都をつくり出すための絶好のチャンス。この千載一遇の好機会をむなしく見送ってしまうようだったら、私たち日本人は、今度こそ本当に、救われがたい劣等民族だと世界中の物笑いの種にならなくてならないでしょう〉と「帝都復興事業」にも似た言い回しをしています。