らいてう率いる青鞜社につめかけた「新しい女」たち

明治も中盤以降になると、政府の殖産興業施策によりさまざまな産業が勃興し、それに伴い、女性の職場も次第に増えていくことになります。女性の電話交換手が生まれたのは1890(明治23)年、国鉄と三越がはじめて女性社員を採用したのが、それぞれ1900(明治33)年、1901(明治34)年。ただ、こうした職域もやはり、アシスタントもしくは色添えとしての側面が強く、産業界のメインで活躍するという類いのものではなかったようです。

それでも、社会で働く女性の増加は、従来の良妻賢母型の女性像を打ち壊す解放運動につながっていったのは確かでした。その流れの最初の理論的支柱となったのが、1911(明治44)年に創刊された女性雑誌『青鞜』です。平塚らいてうが書いた「元始、女性は実に太陽であった。(中略)今、女性は月である。(中略)私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や取り戻さねばならぬ」という発刊の一節が大きな反響を呼び、発行元の青鞜社に購読ならびに入社希望者が殺到しました。社屋周辺に集う女性たちは「新しい女」と呼ばれたそうです。

青鞜』の創刊号。(画像=高村智恵子作/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

晶子とらいてうの「母性保護論争」

ところが『青鞜』は一度発禁処分となり、その後1916(大正5)年、わずか52号で休刊。らいてうはより一層の女性解放を目指し、市川房枝らとともに、1920(大正9)年に新婦人協会を設立し、「女子高等教育、婦人参政権、母性保護」などを目標に掲げました。

その平塚が、1918(大正7)年から翌年にかけ、歌人、与謝野晶子と繰り広げたのが「母性保護論争」です。「元始女性は太陽であった」の一文が寄せられた『青鞜』創刊号には、与謝野晶子も有名な「山の動く日来る」で始まる詩を書いています。つまり当初は両女がそろい踏みしているのですが、晶子はその後、『青鞜』とは距離を取っています。そこには、らいてうと晶子の女性解放に関する根本的な方向性の違いがあったのではないか、と思われます。

端的にいえば、晶子は女性が経済的に自立することが第一であり、そうすれば、夫からの自由を勝ちうるという考え方があります。彼女は、家事・育児こそ女性の生業という男女性別役割分担論を忌避しました。ここが、らいてうとの最大の違いと言えるでしょう。