軍司令部は長沙作戦に懐疑的だったが…

まず問題となるのは、この作戦の効果だ。長沙と香港付近の広州とは粤漢線で結ばれているが、直線でも550キロ以上も離れている。長沙に圧力が加えられたからと、すぐさま反応するような敏感さを中国軍が持ち合わせているとは思えない。さらに第4師団がフィリピンに転用されたため、第11軍が投入できる兵力は第一次作戦の歩兵大隊46個基幹から22個基幹にまで減っている。

第11軍司令部でも、再度の長沙進攻には懐疑的な意見が多かった。参謀長の木下勇少将(福井、陸士26期、騎兵)は、もし香港攻略の第23軍が苦戦に陥ったならば、やむなく長沙に行かざるを得ないという程度の認識だった。後方担当の参謀副長だった二見秋三郎少将(神奈川、陸士28期、歩兵、航空転科)は、補給幹線を維持できるのは汨水までという姿勢を崩さなかった。作戦参謀の島村矩康中佐(高知、陸士36期、歩兵)にいたっては、ピストン作戦そのものに批判的だった。

「恥ずかしさ」が軍事的合理性を押し退けた

こうして長沙への再進攻はむずかしくなったが、阿南軍司令官は諦めなかった。ここで断念すれば恥ずかしい限りという意識が働いていたのだろう。加えて第3師団長の豊嶋房太郎も積極的だった。

この2人の関係だが、阿南が陸軍次官のときに豊嶋は憲兵司令官で直属の部下という形だった。そして豊嶋が第3師団長に転出すると、追いかける形で阿南が第11軍司令官となった。中央官衙で上司と部下、出征してからは軍司令官と師団長という関係は、そうあることではない。

豊嶋は第3師団長を昭和15年9月から務めているから、そろそろ転属の時期だ。本人としても花道を飾りたいという思いがあっただろうし、上官の阿南としても飾ってやりたいという気持ちになっても不思議ではない。また、第3師団は昭和12年8月以来、長らく中国戦線にあったから内地に帰還するか、ほかの戦線に転用される可能性が高まっていた。これまた大陸戦線の最後に快勝させて送り出してやりたいという気持ちにもなる。このような人情論が出てくると、軍事的な合理性が引っ込むことになりかねない。

友軍のための「徳義の作戦」という話が称賛の声とともに広まってしまった以上、第11軍としてもなにかしなければ格好がつかない。また、太平洋戦争が開戦となって香港攻略戦が始まると、第11軍正面の中国軍が動きだして南下しつつあることが偵知され、これを牽制することになった。具体的には兵力や補給の問題から長沙までは行かないが、屈原(楚の詩人)が入水したことで知られる汨水の南岸まで進出して中国軍を打撃することと決められた。徳義の作戦を屈原で知られる汨水一帯で展開するとなると、ヒロイズムに酔い出すのが当時の日本人だ。