四天王のなかではなぜか低待遇

こうした功によって、後世に「徳川四天王」の筆頭と称されるようになった忠次だが、そのわりには、残りの3人とくらべて待遇が見劣りする。

天正18年(1590)の小田原攻めののち、家康が関東に転封になると、忠臣たちの多くは加増された。四天王の残り3人は、井伊直政が上野(群馬県)の箕輪(高崎)に12万石を得たほか、榊原康政は同じく上野の館林に10万石、本多忠勝は上総(千葉県中部)の大多喜に10万石をあたえられている。

ところが酒井家は、家督はすでに天正16年(1596)に長男の家次に譲られてはいたものの、下総(千葉県北部)の臼井に3万7000石をあたえられたにすぎなかった。家康の叔父にあたり、徳川家の筆頭家老を長年務め、多大な功績があった家なのに、である。

その理由は、先に引用した本郷和人氏の記述のとおり、「家康が酒井を嫌い」で「信康腹切事件が一番の原因」だったのかもしれない。だが、嫌いであったとしても排除せず、厚遇こそしなくても、それなりに遇してはいた。

だから家康は天下をとれた

信康および築山殿に死を命じたのが、これまで言われてきた信長ではなく、家康自身だったとしても、家康はほかならぬ正妻と嫡男を殺したかったはずがない。

しかし、2人に武田方との内通の痕跡があり、それを事実上の主君である信長が知るところになってしまったら、家康は信長に命じられなくても、妻子を殺すしかなかっただろう。

家康と信長の同盟は、当初はまったくの対等だったが、信長が足利義昭に供奉して上京したころから、家康が信長に従属する関係に変質していた。

家康は「自分が首根っこをつかまれている信長に、忠次はなんということを言ってくれたのか」という思いが消えなかったに違いない。だから忠次のことが好きになれず、立場と功績に見合った領地をあたえなかった――。本郷氏の見立ては、それほど外れていないのではないだろうか。

しかし、こうも言える。家康は能力がある人材であれば、どんなに嫌いでも排除しなかった。酒井忠次の戦功を振り返っても、要所で家康を助け、救ってきたことは疑いない。信康事件にしても、情にほだされて家族を救っていたら、家臣に示しがつかなかったかもしれない。

家康は冷静にそう判断し、私情を殺して、能力ある人材を使いつづけた。それができる人物だったから、天下をとることができたのである。

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