食糧難の時代に6人の子どもを育て上げた母親

今野さんの念頭には、戦後の食糧難の時代に6人の子どもを育て上げた、母親の姿がある。

「私の父は写真が趣味だったから、外国のカメラをいくつも持っていた。母は食糧を手に入れるために、そのカメラを一台ずつ持ち出しては買い出しに出かけていくわけ。私はそれが許せなくて、『お父さんにとって、どれだけ大事なものか!』ってものすごく怒ったんです。でも、母が自転車にお餅やらお芋やらを山のように積んで帰ってくると、それはそれで嬉しいから『わーい』って喜ぶわけ。ところが母は、『ちょっと待っててね』と言ってどこかへ行ってしまうの」

撮影=市来朋久

戻ってきた母の自転車に乗っている食糧は、ずいぶん少なくなっている。町内に3軒あった、乳飲み子を抱えた戦争未亡人の家に分けてしまったのだという。

「それを聞いた私は母を許せなくて、また怒るわけ。『カメラもお餅も、みんなうちのものなのに!』って」

貯金も資産もないが老後の不安はない

当時は母親の行動を理解できなかった今野さんだが、振り返ってみれば、自分も母親と同じことをしてきたのかもしれない。

今野さんは「ベンチャーの母」と同時に、「国境なきお母さん」の異名を持つ。私財を投じて何人もの発展途上国の若者の親代わりをして、「日本で学びたい」という彼らの希望を叶えてきたのだ。著書『ベンチャーに生きる』(日本経済出版社)の中で、ネパールのクリシュナという若者とのエピソードが紹介されている。

ネパール旅行のガイドとして知り合ったクリシュナは、日本で勉強をして、ネパールの子どもたちに教育を受けさせることに一生を捧げたいのだと、今野さんに支援を懇願する。クリシュナの真剣さに打たれた今野さんは、煩雑な入国手続きを突破して彼を日本に招き、物心両面で支援した。『ベンチャーに生きる』にこんな一節がある。

あれから十年の歳月がたった。クリシュナが立ち上げて、理事長や校長を務めている学校が三十五校になっている。ネパールでは子供がひとり学校へ行くのに、何もかも含めて年間一万七千円かかるそうだ。NPOからも応援を得たりして、一万七千円集めては一人の子を学校に行かせ、また一万七千円集めては次の一人を行かせるという形で、これまでに一万人余の子供たちを就学させてきた。(177ページ)

今野さんには、クリシュナのような「息子たち」が世界中に何人もいるという。だから、貯金も資産も持ってはいないが、老後の不安は一切ないというのである。

写真=本人提供
クリシュナさんと。