「負け組」蔵元が躍進した秘密

当時の日本酒業界には、純米大吟醸の市場も安定的な生産技術もありませんでした。だからこそ、獺祭が新しい高価な酒の市場と生産技術を確立できたのです。なぜ、それが地方の負け組酒蔵でしかなかった旭酒造に可能だったかといいますと、時代の背景が大きかったと思います。

日本経済が発展することにより個人の平均所得は上がりましたが、それに対し、酒の価格そのものは機械化や合理化により反対に低下しました。つまり、質さえ問わなければいくらでも飲めるようになった、ということです。業界内ではあえて目をつぶっていましたが、社会全体で見たとき、アルコール疾患の患者の増加などといった問題が起きてきました。

そこで私は、大量に飲んで酔っ払う快感から、良い酒を少量飲むことによる心理的充足への脱皮を求めて、純米大吟醸専業の酒蔵へとかじを切ったのです。これにより大きな意味で社会からの好感も得ることができ、獺祭が若者や女性を中心に受け入れられるようになったのです。

しかしこれは、いまになって思うと「負け組」の酒蔵であったがゆえにできたことでした。勝ち組であれば、それまでの自分の酒を否定できなかったのではないかと考えます。

加えて、物流とコンピューターの発展が後押ししてくれました。宅配業界の発達による個人への小口物流の簡易化と低価格化が、東京市場に進出しようとする旭酒造にとって大きなプラスになりました。

またコンピューターの普及浸透が、直接エンドユーザーに私たちの情報を伝えることを可能にしてくれたのです。それらは大いに都市型市場の開発に役に立ちました。

最大のピンチこそ自己変革のチャンス

一方で私は、純米大吟醸しか造らない酒蔵に変えるにあたって、それまで酒を造ってくれていた杜氏とうじたちとの関係に苦慮します。

伝統的酒造習慣では、冬場しか酒を造らず、杜氏の年間継続雇用には難がありました。それを補うため、夏場の雇用対策としてビールのマイクロブルワリーを造ります。しかしその事業に失敗してしまい、なんと2億円近い借金を抱えてしまったのです。

これでは給料をもらえそうにない、と感じた杜氏は、部下を全員引き連れて他社に移ってしまいました。

困った私は、逆にそれを奇貨として、自分と社員4人だけで酒造りを始めます。

結果としてそれは、「美味しい純米大吟醸を造りたい」という私の意志を社内に一気通貫で行き渡らせることになりました。そのうえ、それまで頑固で高齢な杜氏の下ではできなかった、美味しい純米大吟醸の実現に向けての数限りないトライアル・アンド・エラーを繰り返すことを可能にしました。

参考にしたのは、秋田醸造試験場の田口隆信場長が出した、大吟醸造りにおける米やこうじの分量、発酵のタイミングなどを事細かに記した研究レポートです。レポートに記されていることを生真面目に守り、すべての段階をデータ化していきました。