事件の遠因は徳川家家臣の謀叛事件

それではなぜ、家康は信康そして築山殿を処罰することにしたのであろうか。さらには自害させたのであろうか。

真相を伝える当時の史料は存在していないので、そのことを追究するには、当時における徳川家をめぐる政治情勢、徳川家における築山殿と信康の立場、などのことから導き出していかなければならない。これについては近時、『家康の正妻 築山殿』において詳しく検討したところである。

ここではその成果をもとに、事件について取り上げていくことにする。なお同書では、谷口克広氏(『信長と家康』)・本多隆成氏(『徳川家康と武田氏』)・平山優氏(『武田氏滅亡』)・柴裕之氏(『徳川家康』)を多く参照しているので、あわせてそれらの研究にもあたっていただきたい。

事件の遠因は、大岡弥四郎事件にあったと考えられる。これは、徳川家家臣で岡崎町奉行の一人であった大岡弥四郎や信康の家臣らが、敵対する武田勝頼と内通して岡崎城を武田方にする謀叛事件を企てていたことが発覚し、捕縛されたうえで処罰された、というものである。

武田勝頼が送り込んだ巫女のお告げ

三河物語』は、大岡弥四郎事件について築山殿の関わりを記していないが、「岡崎東泉記」『石川正西聞見集』には、そのことが記されている。

天正3年(1575)になって、甲斐の口寄せ巫女(神仏の意思を語る巫女)が岡崎領に大勢きていて、それにつけ込んで武田勝頼が、巫女を懐柔して、築山殿に取り入らせた。それは築山殿の下女にはじまり、奥上﨟おくじょうろう(女性家老)にまで達して、ついに築山殿に目見えするまでになった。

そこで、「五徳を勝頼の味方にすれば、(勝頼が天下人になり)築山殿を勝頼の妻とし、信康を勝頼の嫡男にして天下を譲り受ける」という託宣を述べさせた。

出所=『徳川家康の最新研究』より

また西慶という唐人医で築山殿の屋敷に出入りしていたものを、この談合に巻き込んだ、とある。そしてこれに続いて、大岡弥四郎らを大将分として、勝頼から所領を与える判物が出されたことが記されているので、西慶が大岡らに働きかけた、ということであろう。