含みのある説教について考える

含みのある説教は、不思議な構造をしています。話し手が事実から目をそらしているようなところがふたつあるのです。

ひとつめは、話しているのは自分ではなく、自分の口を借りた誰かであるかのような態度です。ふたつめは、目の前にいる相手のことを話すというより、自分が思う、相手がなるべき姿について話しているところです。

この不思議な構造の正体を突きとめることが必要だと思われます。

では、含みのある説教について、簡単にまとめてみます。

① 話し手は、他の人の義務の話をするとき、自分ではない者が話したり考えたりしているかのようである。

② 話し手は、義務を無条件のルールのように述べている。しかし、神でもないひとりの人間が、有効条件を先に明示せずに真理を語っても、それは真理とは言えない。

③ 話し手は、バカがすでにバカではなくなったかのように、バカの行為(バカがしたバカなこと)を解釈している。言いかえると、自分が見込んでいる結果が得られること(バカが立派な人間に変わること)を前提としている。

このあたりの理解はたやすいでしょう。話し手が現実から目をそらしたような言い方をするのは、バカに対して無力だからです。無力だから、直接対決を避けているのです。

説教とはバカに助けを求める行為

説教めいた態度を取れば、たちまち、大声で罵倒したり、くどくどと小言を言ったりということになりかねません。そうなれば、結局同じです。言おうとしていることを、整然と言葉にすることはできないでしょう。

先ほどの①〜③のような性質の説教をしても、相手にはよく理解できません。日常会話における議論の分析に習熟している哲学者ならまた別ですが(ちなみに哲学には、形式論理、非形式論理という用語があり、日常会話などは非形式論理に入ります)。

でも、説教について、理解すべきことはひとつだけです。つまり、含みのある説教をする人はみな、自分の無力さをひしひしと感じているのだということです。義務を無条件のルールであるかのように語り、人はどうあるべきかと主語を大きくするのにも理由があります。

自分の言いたいことを、自分が先頭に立って、お互いに納得できる言い方で言うことが、もはやどうしてもできなくなっているのです。

つまり、説教めいた話は、実は、どうしていいかわからず混乱している状態をやりすごしたくてこぼす愚痴のようなものです。

なぜ愚痴かというと、そこで使われる言葉には、ほぼ意味がないからです。意地悪なバカやその他の嫌なバカを前にして、あまりの苦痛に表現力がいわばバラバラになってギュッと縮こまり、おかしなふうに発揮されてしまっているのです。

「わたしが言っていることをわたしは言っていない」

常軌を逸した言い方ですが、こういう意味だと解釈できます。

マクシム・ロヴェール(著)、稲松三千野(訳)『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』(文響社

「何がどうなっているのかもうわけがわからない。いいかげんにしろよ、このバカ」

説教は、助けを求める声です。話し手が頑として引かず、自分は何も言っていない、これを言っているのは自分ではない、という態度で説教をしている場合は全て、完全に助けを求める声です。

でも、それはどうかしているということを、みなさんはわかってください。説教をすると、敵に助けを求めることになります。

しかも、自分の豊かな表現力を捨てて。そんなことをすれば、わざわざ自分から悪夢を見にいくようなものです。そんな必要がありますか? どうか目を覚ましてください。

本稿のポイント
説教めいた態度はやめよう。道徳上の義務と照らしあわせて人の行動のよしあしを判断するのも今すぐやめよう。
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