個室ベッド、人工呼吸器の費用を「支払い拒否」

これでは示談に応じることができないと判断した松尾さんは、結局、民事裁判を起こさざるを得ませんでした。

寝たきりの妻の病院にほぼ毎日通いながらの訴訟は筆舌に尽くしがたいつらさがありましたが、事故から3年4カ月後の2009年11月、富山地裁は被告側の主張を却下。平均余命までの介護費用や逸失利益など全てを認め、被告側に約2億5000万円の支払いを命じました。

ちなみに、被告側は将来介護費用について月額50~60万円(余命4.4年で計算すると、2640~3168万円)が妥当だと主張していましたが、裁判所は介護費用だけで約1億9600万円を認めました。

ニューヨークで長年ビジネスをしてきた松尾さんは、老後は生まれ故郷の富山に移住し、夫婦でゆったり暮らそうと考えていました。しかし、帰国後、事故は間もなく起こり、巻子さんは8年後、病院から一度も外へ出ることができないまま亡くなりました。

松尾さんはその後自宅を処分し、長女の住むアメリカに終の棲家を求め、移住しました。現在86歳、しかし、当時の過酷な体験が脳裏から離れることはないといいます。

撮影=横浜大輔
病室で妻・巻子さんを見つめる松尾さん。

「尊厳を傷つける言動に出ているのは、加害者本人ではなく損保会社」

「女房が事故に遭ってから今年で17年経ちますが、当時のことを思い出すと、今も腸が煮えくり返ります。加害者側の損保会社の弁護士は、何の落ち度もない妻に対して『寝たきり被害者の平均寿命は4.4年』だと言いきりました。被害者とその家族の尊厳を傷つける言動に出ているのは、加害者本人ではなく損保会社なのです。もちろん彼らは、判決で賠償額が決定されれば"無制限"に支払わざるをえないことを知っています。

だからこそ、法的にその額が決定する前に1円でも抑えようと、人権無視の酷い主張をしてまでも徹底的に闘ってくるのです。表面上は善意に見えて、その裏に本音が隠れています。それなのに日本ではいまだに『無制限』という名で自動車保険が売られているそうですね。また、裁判の中では相変わらず『懲罰的賠償』(*加害者の不法行為が非難に値するとき、実際の損害賠償に上乗せして支払いを命じること)も認められていない。結果的に夫である私への慰謝料はわずか300万円でした。私は自分の体験から、この2点が今後のキーワードだと思っています」

松尾幸郎さん。米アルバカーキーにて筆者撮影。

また、松尾さんは、巻子さんが事故に遭ってから亡くなるまでの8年間の壮絶な日々を目の当たりにし、日本の損害賠償のあり方そのものに大きな疑問を感じるようになったといいます。

「人間の苦痛は、①身体的苦痛(Physical pain)、②精神的苦痛(Mental pain)、③社会的苦痛(Social pain)、④霊的苦痛(Spiritual pain)以上4つに分類されます。日本の医療業界でもこれらの苦痛はすでに認識されており、その対応が進んでいます。にもかかわらず、交通事故においては、身体的苦痛だけが賠償の対象になっており、その他の苦痛は軽視、または無視されています。損保業界、そして司法にはそのことをよく認識していただきたいのです」