もしわたしがベンチにいる選手だったら

ベンチでは若い選手が見ていた。当然、わたしにバントのサインが出ていたことも知っている。彼らもプロ選手である以上、「本気でやって失敗した」のか、それとも「最初からファウルを打つつもりだったのか」はすぐに理解するだろう。

もしもわたしが若手選手だとしたら、その先輩選手を軽蔑するだろう。一時の感情に我を忘れ、首脳陣からの指示を無視するような先輩に対して、「口では偉そうなことをいっていても、いざというときに自分勝手なプレーをする人なのだ」という目で、その人のことを見ることだろう。

逆に、怒りの感情を表に出すことなく、淡々と自分の役割をこなすとしたら、わたしはその先輩のことを「かっこいいな」と尊敬することだろう。

結果的に、相手バッテリーによって冷静になる時間をもたらされたことで、わたしは指示どおりバントを決めることができた。ベンチに戻ってからも、普段どおりに感情を表に出すことなく、自軍の応援に努めた。

職場における感情表現の正解とは

いまから振り返ってみても、自分の判断は正しかったと思う。

一時の感情に支配されて、我を忘れてしまったとしたら、そこで失うものは大きかったはずだ。けれども、そんなときこそ、冷静さを取り戻して、自分のなすべきことを淡々と行うことができたことは幸いだった。

現役時代、「ずっと感情を表に出すことは控えていた」と、すでに述べた。

それは、「野球のプレーにおいて感情表現は不要だ」と考えていたからだ。そして、それは野球に限ったことではないと、あらためて痛感している。

人間には喜怒哀楽の感情がある。嬉しいときには全身で喜びを表現し、悲しいことがあれば人目もはばからずに涙を見せ、理不尽なことがあれば徹底的に怒りをあらわにする……。それは、本当に「人間らしいこと」だと思う。

鳥谷敬『他人の期待には応えなくていい』(KADOKAWA)

しかし、仕事の場において、こうした感情表現ははたして必要なことだろうか? たとえ「覇気がない」と非難されることになろうとも、きちんと成果を得るまでは、冷静に事に臨むほうが「正解」ではないだろうか?

感情を揺さぶられるような事態に直面し、冷静な判断ができないなかでなんらかのジャッジを求められたとき、わたしが重視するのは「それはかっこいいか、かっこ悪いか?」ということだ。

腹が立つときこそ、かっこよくあれ――。

パニック状態に直面して取り乱したり、我を忘れてしまったりすることは、本当にかっこ悪いと思う。わたしは、かっこ悪いことはしたくない。

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