(3)多くの作業船の泊地
吉備津大溝は津寺遺跡、加茂遺跡の北側、そして鼓山山麓をつなぎ、吉備津神社を経て笹ヶ瀬川から旭川水系、瀬戸内海から東に抜ける物流の大動脈であった。この大溝(運河)がなければ、吉備中山の南側、現在の新幹線が走るあたりを迂回して漕ぎ進まねばならず、さらにこの付近は海が開けており南風が吹くと航海は難儀した。しかし大溝を通れば、東への安全かつ穏やかな水路が約束されていた。
ところが時代が進むにつれ、このメイン航路の西側の入口・吉備津大溝が、足守川の押し出す土砂で埋没し始め、その対策として頻繁に土砂を浚うことを余儀なくさせられた。そのため、多くの作業船が従事した。その係留場所・泊地が津寺遺跡であったと考えられる。
(4)吉備津大溝の入口を守る構造物
足守川と反対側(堤内地)は泊地として多くの船が係留されたが、船の出入り口が必要であった。南側に開閉式のような入口が見られる。そこは東に吉備津彦神社の方向に延びる大溝の入口であった。その証拠に、報告書にここから東に水路があるという記述があった。海が浅くなるにつれ膨大な水路の浚渫土が生まれる。津寺遺跡ができる100年以上前から山を造り、日本第4の古墳が誕生している。
どのように土砂を運んだか? 浚ったばかりの土は大変重い。水路の脇に近くの微高地に一次土捨て場を設け、小山をつくり、天日干しにする。水分を十分抜いたあと、船で造山古墳に続く多くの古墳まで運んだのではないか。古墳での陸揚げにおいては、モッコに詰めて運んだのだろう。6世紀になって現場で土のうに詰め船で運ぶ方法がとられるようになるが、ここではどちらかわからない。いずれにしても、この港のおかげで巨大古墳はつくられたのである。
19世紀オランダの技術と酷似
2メートル程度の杭長であり、根入れを考えれば、おそらく水深、数十センチの杭である。左側は足守川(繰り返すが当時は足守川はない、将来川になる)、右側は遊水地を兼ねた泊地であったと考える。足守川の水は木杭の隙間から遊水地に透過する。構造物に横方向の水圧が加わらない棚式突堤であった。
ただし、流れのゆるやかな場所でなければ成立しない。波や流れがあればすぐに流され、吹き飛ぶ弱い構造である。オランダの粗朶沈床の技術と酷似している。桟橋構造は粗朶という軽い材料で背後の土圧を軽減する(ここの場合は背後の土圧はない)とともに、すべりによる崩壊を防いでいる。
オランダはラインデルタの軟弱地盤でできた国で、石材もない。木材と海岸で生える灌木で堤防や岸壁、いや国土そのものをつくってきた。古代の吉備の人々は19世紀のオランダ人と同じ程度に知恵があったということを証明した構造物である。この津寺遺跡の遺構を改めて正しく評価することが必要である。