「治水遺跡」と認定されたが…

この遺跡は、日本道路公団広島建設局岡山工事事務所と岡山県教育委員会との合同調査によって、「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告『津寺遺跡2』山陽自動車道建設に伴う発掘調査(その1)」(1995)として報告された。その後、河川技術の権威によって津寺遺跡は「古墳時代末期から平安時代の代表的な治水遺跡」とされた。

写真=時事通信フォト
岡山市の津寺遺跡で発掘された、多数の杭が打ち込まれた遺構(1989年3月17日)

報告書と、発掘調査に立ち会ったという柴田英樹氏によれば、護岸のような構造物であるが、不思議にも背後には土盛りがなく水面であったという。その構造は、非常に独特で、群杭の間にはスギの樹皮や木の皮、あしなどを挟み込んだ盛土もりどがあり、横木もあった。過去に類例を見ない、歴史的な大発見とされた。しかし、報告書を読んでも、特殊な河川の護岸であると書かれているだけで、詳細はわかっていないようである。

「護岸」「堤防」にしては低すぎる

写真を見てもらえればわかるが、治水が目的の割には、天端てんば(堤防の高さ)が低すぎる。少し増水すればすぐに水は乗り越える(当時は足守川はまだなかった)。当時、現地調査に携わった前述の柴田氏は、背後(堤内地)に護るべき重要な施設もない、堤内地も水面であって不思議だったという。当時、総社そうじゃ市、倉敷市、玉野市から岡山市にかけて穴の海と呼ばれた大きな海があり、この遺跡はその北西部の足守川の左岸に位置している。

現在も標高10メートル以下の低湿地の多くは田圃たんぼであり、4世紀から5世紀の時代、足守川の吐き出す土砂で陸化が進んでいた場所であった。浅い海、もしくは一面ぬかるむ泥の汽水域であった。千年後に豊臣秀吉が水攻めにした備中高松城が北方1キロ余りにあり、その時代も泥田であったことからも想像がつく。

そして、西に日本第4位の古墳造山古墳があり、東に加茂遺跡、南に楯築たてつき墳丘墓が位置する。いずれも1から2キロメートル範囲である。以前私が吉備津きびつ神社に訪れたとき、吉備津駅前と神社の間に小さな川があった。その川は「吉備の中山みち」に沿って東に流れているが、古代の穴の海の交易を支える重要な水路であったと考える。地図に川の名前がないので、岡山市に聞いたところ、「名無しの排水路」であるという。