「天主」はどこから来たのか

井上章一著『南蛮幻想』は、この画期的な建築が誕生した理由が、その後どのように理解されてきたかについて、細かく追跡している。それによると19世紀末までは、江戸後期に儒者の太田錦城が『梧窓漫筆拾遺ごそうまんぴつしゅうい』で述べたように、西洋ではキリスト教、すなわち天主教の神を高層建築に祀る習わしがあり、信長もそれにならって神を祀ったので天主という名が成立した、という理解が平均的だったという。

しかし、歴史家の田中義成は明治23年(1890)の「天主閣考」で、天守とキリスト教のあいだの因果関係を否定。

天主教とは中国の明代の呼称で、その漢訳を考案した宣教師のマッテーオ・リッチが明に入国したのは、安土城が炎上した天正10年(1582)なのだから、それ以前に「天主」の訳語が日本の建築に充てられたわけがない、というのである。

ちなみに、田中は天主の語源を仏教の経典に求めている。事実、四天王を置いて守護させたから天守だという解釈は、江戸時代からあった。

一方、天主という呼び名が天主教に由来する、という説が否定されたのちもなお、安土城に天主が建ったのはヨーロッパの築城術の影響だ、とする考えは根強かった。

ところが、洋式の築城術で建てられたという主張は1910年代から下火になり、天守とは日本で自律的に発展したものだとする説が登場。

大類おおるいのぶるらは、日欧は同じように封建主義を経験したので、同じような高層の城が出現した、という説を唱えた。その流れは、1930年代になって国粋主義が台頭すると加速する。

ヨーロッパ起源説の根拠

そして戦後になっても、天守は日本起源だとする流れは変わらなかった。

そこに一石を投じたのが、建築史家の内藤昌氏だった。和漢古書専門の図書館である静嘉堂文庫で、旧加賀藩の作事奉行を務めた池上家に伝わる「天守指図」を発見。

そこに示された天主1階の不等辺8角形の平面図が、安土城址に残る天主台の平面と一致したことで、その「指図」をもとに、昭和51年(1976)に天主の詳細な復元案を発表。

「指図」によれば、4階までが日本の建築としては異例の吹き抜けなので、内藤氏はそこに、宣教師たちから受けたヨーロッパの影響を指摘した。

内藤氏の復元案に対しては、いまも反論が多い。そして多くの反論は、ヨーロッパの影響を受けたという解釈に対しても否定的である。その際には決まって、過去に例がない重層の建築が安土城に出現したのは、日本人の創意か、さもなければ中国の建築様式の影響だ、と主張される。

もし宣教師らが建築についてなんらかの手ほどきをしたなら、フロイスがそのことを書かなかったわけがない、というのである。

たしかに、フロイスの『日本史』には、信長の安土築城にあたって、南蛮人とよばれた人たちがなんらかの協力をしたとか、サジェスチョンをあたえたという記述はない。

それ以外の宣教師たちの記録にも、そういう記録は見つからない。