信長が宣教師に3時間質問攻めした内容

だが、『日本史』によれば、信長は面会した宣教師らをいつも質問攻めにしている。

このほか、「彼(信長)がインドやポルトガルからもたらされた衣服や物品を喜ぶことに思いを致したので、彼に贈られる品数はいともおびただしく」という記述からも、信長が南蛮の文物へ強い関心をもち、所有するのを好んだことがうかがい知れる。

香原斗志『教養としての日本の城』(平凡社新書)
香原斗志『教養としての日本の城』(平凡社新書)

また、永禄12年(1569)、フロイスらに岐阜城内を案内する前に、信長は「貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがするように思われるかもしれないので、見せたものかどうか躊躇する」と発言したという。

さらには、岐阜城を案内する際の信長の様子についても、フロイスは「彼は私に、インドにはこのような城があるか、と訊ね、私たちとの談話は2時間半、または3時間も続きましたが」と記している。

このときにかぎらず、信長はフロイスらと対面するたびに、日本の建築などをヨーロッパのそれとくらべたがったことは、見逃してはなるまい。

つまり、宣教師たちから、建築についての指導を直接は受けなかったとしても、彼らの語るヨーロッパの建築に想像をめぐらせ、イメージを喚起され、それを日本で具現化しようとした可能性は否定できない。

それは、われわれが日常的に周囲の人たちやさまざまな文物から受ける影響と似ている。そして、このような影響は文献には残りにくい。

フィレンツェとの意外な共通点

では、安土城天主のどこに、なにからの影響が感じとれるだろうか。先に天主の地上5階は八角堂だったと書いたが、当時の日本には、高層部に八角堂がしつらえられ、そのさらに上部に四角い望楼が載せられた建築など、安土城の前には絶無だった。

では、西洋には当時、それに類する建築があったのだろうか。信長の同時代、すなわち16世紀当時のキリスト教世界を代表する建築は、なにを措いても、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)大聖堂だった。いまもフィレンツェのシンボルであり続けているこの教会堂は、中央にフィリッポ・ブルネッレスキ設計のクーポラをいただいた八角形のドームが載り、その上に小さな望楼が載せられている。

フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(写真=Flickr/Frank K./CC-BY-2.0/Wikimedia Commons

信長からヨーロッパの建築について尋ねられたフロイスらが、具体的にどんな建築について語ったかを想像するに、フィレンツェの大聖堂について触れなかった可能性は、かぎりなく低いように思われる。そして、安土城天主のてっぺんから2層は、その様態を言葉で説明するかぎり、この大聖堂の形式に非常に近いのである。

といっても、信長が宣教師らの話から影響を受け、わけてもフィレンツェの大聖堂の姿を意識したと証明できる史料は存在しない。だから、歴史とは厳密な史料批判を行い、事実のみにもとづいて記述するべきものだ、という実証主義の立場からは、こうした推論は否定されてしまう。

しかし、われわれの実生活を思い起こしても、なにかを見て強烈な印象を受けたり、だれかの言葉に心を突き動かされたりして、自分の理想や世界観が大きく変わることは多い。繰り返すけれども、そういう影響は具体的な記述に残りにくく、実証的に示すことが困難である。だから、歴史を客観的に把握する姿勢を貫くほど、すくい上げるのが難しい。したがって、これから記すことも推論を越えないが、信長と宣教師たちとの交わり方から考えるに、彼らからの影響がないと判定するほうが不自然だと私は考える。

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