安土城と他の城の決定的な違い
その後、この安土城がモデルになることで、各地の城に天守という高層建築が、シンボルとして建てられるようになった。
ただ、その後の天守と安土城の天主とのあいだには、ひとつ大きな差異がある。いま日本には12の天守が現存する。そのいずれかを訪れたことがある人は、粗削りの梁や桁がむき出しになるなどした、装飾がほとんどない無骨な内部が印象に残っているのではないだろうか。
17世紀以降に建てられた天守で、居住性が求められた例は多くない。それ以前も絢爛豪華な内装は多くなかった。城主が住んだり政務を行ったりする建物は御殿であって、天守の内部は普段は使われないため、装飾するだけ無駄だったのだ。
一方、安土城の天主は、すでに見たように、外観はもちろんのこと内部も華麗に装飾されていた。
フロイスは、先に引用した文に続いて、「それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである」と書いている。
すみずみまで徹底的に装飾され、柱や床をふくめ白木が見える部分がなかったと推測される。じつは、信長だけは(あとにも先にも信長だけだが)、一定程度、天主に居住したと考えられている。だから、その内装は御殿のように、あるいは御殿以上に飾られたのである。
奇想天外の建築を思いついたワケ
だが、ここで根本的な疑問を示したい。なぜ信長は権力のシンボルとして、天主なる高層建築を建てることを思いついたのだろうか。
安土城以前に天主が存在しなかったわけではない。たとえば、信長が安土の前に居城にした岐阜城にも、明智光秀の坂本城にも、すでに天主(天守)が建てられていたとされる。だが、そのスケールと豪華絢爛たる度合い、ひいては象徴性を考えれば、天守は安土城にはじまったといっていい。
そもそも日本の建築史上、仏塔をのぞけば4階建て、5階建ての建築は、それまでほとんど例がなかった。ましてや居住できる7階建てだなんて、当時としてはあまりに奇想天外な建築だった。