京都・大坂から家康を引き離したかった

では、なぜ江戸なのか、ということになるが、江戸は赴任先として決して悪い場所ではないのだ。

江戸は古くから東国と西国の水上物流の拠点であるのはもちろん、陸上交通の要衝でもあった。相模国と中原街道・鎌倉街道などでつながり、さらに奥州につながる街道もあった。秀吉は小田原征伐の後に奥州仕置(奥州地方の大名たちの領土仕置)を構想していたため、奥州へ向かうルートの確保のためにも江戸は重要地点だったといえる。

戦略拠点となる江戸を任せることで、豊臣政権内で徳川家康の力量を最大級に評価しているというポーズをとりつつ、権力中枢の京都・大坂からは地理的に引き離せる。秀吉にとって家康を配置する最適な場所が江戸だったのである。

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では秀吉から江戸を指定された家康はどう受け止めただろうか。私は内心「しめた!」とほくそ笑んだのではないかと想像している。

家康は江戸のポテンシャルを見抜いていた

実は家康は自身の関東転封が濃厚となったころから江戸に強い関心を示し、家臣を江戸城に何度も派遣して様子を探らせていた。

江戸城を造ったのは室町時代の智将・太田道灌だが、道灌が謀殺された後は紆余うよ曲折を経て北条家の支城となった。

北条家は初代・伊勢宗瑞(通称・北条早雲)が、伊豆・相模を実力で奪い、2代・氏綱、3代・氏康、4代・氏政、5代・氏直と、権力を引き継ぎながら東に勢力を伸ばし、領国をついに関東一円に広げた。

最大領土になったのは4代・氏政の時だが、この氏政は天正8年に家督を5代・氏直に譲り、自身は北関東および江戸の経営を直接行なうようになった。

それから10年ほど経った天正18年の江戸は、北条氏の新たな重要拠点として整備が進み、都市として発展する過渡的な段階にあったと考えられる。家康は北条家と友好関係にあったから、こういった江戸の都市化に関する最新の情報は秀吉以上に豊富であった可能性が高い。

そもそも関東支配の拠点としては、小田原では西に寄りすぎている。関東平野の扇の要のような位置にある江戸の方が地勢的にも理にかなっていた。また水上&陸上交通の便の良さを鑑みれば、全国統一事業が完了して大名間の領土的障壁がなくなればさらなる経済発展も見込まれる。ポテンシャル無限大!

家康にとって江戸は、京都・大坂を拠点にする豊臣政権と適度な距離をとりつつ、より大きな力を蓄えるのに最適な場所だった(なぜそんなに大きな力を蓄える必要があったのかはご想像にお任せします)。