武田信玄が仕掛けた罠
12月22日、武田軍は、浜松城北方12キロの三方原まで南下してきた。が、突如ここで進路を変更、西へ進み始めたのである。一方、武田軍の接近を知った家康は、重臣の反対を押し切って、城から出てしまう。
浜松城を出た徳川軍は、にわかに進路変更した武田軍に対し、距離をとりつつ追尾していった。だが、三方原台地がとぎれ地形がくだりに変わる直前、武田軍はピタリと動きをとめ、陣形を素早く魚鱗に変化させ、戦闘態勢を整えたとされる。
家康は状況によっては背後から一撃を加えようと考えていたが、まさかその手前で、対峙するとは思ってもみなかった。
そこでとりあえず、陣形を鶴翼(敵を前に左右に広がって兵を配置する形態)に展開したものの、敵を追いかける態勢になっていた徳川方の武将たちは、すぐにでも相手に襲いかかりたいという心理を持ってしまったようだ。
これは信玄の巧妙な罠であり、さらに信玄は、徳川方に石礫を雨の如く投げるという挑発行為に出た。馬鹿にされたと思った徳川の武将たちは、家康の制止も聞かず、次々と武田軍に襲いかかってしまった。
かくして両軍の全面衝突が始まる。当初、徳川軍は勢いに乗っていたようで、『三河物語』によれば、緒戦で敵の一陣、二陣を撃破したという。武田軍はさらに新手をくり出してきたが、この軍勢も切り崩して信玄の本陣まで到達した。
しかし、威勢が良かったのはここまで。まもなく数の差で戦況が逆転しはじめ、やがて徳川軍の潰走がはじまった。家康は動転することなく、小姓たちを討たせまいと馬を乗り回して抗戦し、やがてまん丸になって退却していった。
『松平記』は、家康は裏切った山家三方衆や小山田信茂の軍勢へ攻めかかり、これを追い立てて100人を討ち取ったものの、他の味方が崩れてしまったので兵を引いたという。ただ、『三河物語』と『松平記』では、家康の動きは簡潔すぎてよくわからない。
「ここで討ち死にする」
これが史実かどうかは別として『徳川実紀』になると、かなり詳細になってくる。夏目吉信は浜松城にいたが、味方の敗北を知ると、手勢を引き連れて家康のもとへはせ参じ、「すぐに御帰城ください」と述べた。
しかし家康は、「こんな負け方をして、どうしておめおめ引き返すことができようか。それに敵が追撃してくれば、城まで引き返すのは難しい。ここで討ち死にする」と退却を拒んだ。
すると吉信は、家康の馬の口をつかみ、側にいた畔柳武重に「私が主君の身代わりになる。お前はすぐにお供して撤退せよ」と言い、自らを家康だと名乗り、十文字の槍を手に取って激しい戦いのすえ命を落としたという。
武重は吉信が時間を稼いでいる隙に家康の馬を引いて撤退しようとしたが、家康は激怒し、乗り馬を激しく何度も蹴ってその場を動かさないようにした。けれど武重は強引に馬を引きずって戦場から離脱したのである。
ただ、武田軍は追撃の手を緩めなかった。このとき松井左近忠次が家康のもとに参じ、家康が身につけている目立つ朱色の甲冑と自分の甲冑を交換させ、その場に残って奮戦した。