【村井】野球では「エラー」が記録されますが、ミスが本質のサッカーにエラーの記録はありません。パスミス、シュートミスを何度も乗り越え、90分間ゴールを目指し続けるのがサッカーです。ミスを恐れてシュートを打たなければゴールは生まれませんから、リスクを冒してシュートを打ったり、パスが来ないことがあってもボールの反対側のサイドを何度も駆け上がったりとチャレンジを繰り返す。
大きく心が折れても折れた心をもう一回立て直して立ち上がる。それこそがサッカーという生業ですから、Jリーグもミスをど真ん中に置いて立ち上がっていこう、という意味で「PDMCA(計画、実行、ミス、チェック、修正)」を掲げました。
リクルート時代は「3年間だけ働く」制度を導入
――リクルートの生業とはなんだったのでしょうか。
【村井】私は「変化」だと思っていました。リクルートが扱うのは「情報」ですから、日替わり、週替わりでコンテンツが変わります。だから変化が好きな人にとってはパラダイスだったと思います。
私が人事担当の時「CV(キャリア・ビュー)職」という制度を作りました。「リクルートに興味はあるけど、正社員は敷居が高い」という人を、学歴などに関係なく3年間の期限付きで採用する制度です。
「3年間で辞める前提の就職なんて、どこの親が認めるのか」とか、いろいろと反対意見がありました。でも配属エリア外の転勤がないとか、3年勤め上げたら100万円の退職金がもらえるとか、メリットもあったので、やる気のある人たちが大勢集まってくれました。会社全体では毎日、歓迎会と送別会が開かれていて、ある種の活気も生まれたと思います。
会社が固まり始めると、わざと壊していた
――「公園のように出入り自由な会社」とも言われ、「就職したら一生その会社で働く」という日本における働き方の概念を大きく揺さぶりました。
【村井】創業者の江副浩正さんや、リクルートの組織や制度の原型を作った大沢武志さんたちは、ホモ(単一)よりヘテロ(雑多)を好む傾向があり、会社が一つの方向に固まり始めると、新しいことを始めてわざと壊していた記憶があります。
リクルート事件で江副さんが社長を辞めた後も、その文化は残っていて、人事担当役員の関一郎さんが小さな女の子が乗る三輪車に乗っかられて下敷きになり「リクルートの中で偉くてもしょうがなかったりして」と書いたポスターを社内にあちこちに貼ったりしていました。紙からデジタルへの変化に対応して今のリクルートがあるのは、こうした変化を好む気質に秘密があるのだと思います。