物語を盛り上げる低俗な憶測の可能性が高い
いずれにおいても、おおよそ、秀吉・勝家ともにお市の方に想いを寄せていて、織田信孝のはからいによってお市の方は勝家と結婚した、とするものになっている。話の流れはほぼ共通しているので、おそらくは元になる話があったのであろう。しかしだからといってそれが事実であったかどうかは別である。
そもそもそれらの史料の成立は、江戸時代前期後半以降のものであること、元の話があったとしても伝聞によったであろうこと、しかも秀吉と勝家の権力抗争についての理由を見いだそうとするなかでのものであることからすると、他者ないし後世の人による、興味深い内容にするための、いわば低俗な憶測の可能性が高いと思われる。
そもそも実際に起きたと推定される事実との間に矛盾がみられている。お市の方と柴田勝家の結婚は、「清須会議」で取り決められたものとみられ、それは勝家が長浜領を請け取ることと一体のこととみなされた。したがってその後にみられた、秀吉と勝家の主導権争いのなかで生じたことではなかった、とみなされる。
とくに「祖父物語」では、「清須会議」によって岐阜城主となった織田信孝のもとに、勝家が訪れて、お市の方との結婚を実現したように記していたが、そもそも信孝が岐阜城に入る以前に、お市の方と勝家の結婚は取り決められていたと考えられるから、そのような事態は生じえなかった。
それらはおそらく、お市の方と勝家の結婚が「清須会議」での取り決めによることが忘却されたなか、秀吉と勝家の権力闘争の理由を、興味本位で認識しようとして生み出されたものであったように思われる。
「天下一の美人」という評価は本当か
次に、お市の方に関する著名なエピソードについて検証しておくことにしたい。それはお市の方が「天下一の美人」と評されていたことについてである。現在、それはお市の方の代名詞ともなっているといってよい。そのため本書(『お市の方の生涯』)でもそれを無視することはできない。あらためてそのことを検証しておきたい。
お市の方を「天下一の美人」とする直接の典拠は、先にも引用したが、「祖父物語」である。そこに「天下一の美人の聞こえ有りければ」と記されていた。さらにそこには続けて、それゆえに秀吉がお市の方と結婚することを望んでいた、という話に展開している。
これまでは、同史料の成立は慶長年間頃とみられていたため、比較的に信憑性のある話として受けとめられてきたが、そこで記したように、同史料の成立は、江戸時代前期後半以降とみなされる。そのためその評判が、当時からのものであったのかは不明ということになる。