わからない言葉はたくさんあったが

出社したものの仕事がない。あるわけがない。経営のこともコンサルタントのことも知らない。誰が上司なのかもわかってないのである。

就業時間は一応9時5時だったような気がするが、何しろそれに従っている人間が一人もいない。自由出社だし、自由退勤。タイムカードもなかった。

うろうろと何をやっているのかわからない人もいたが、提案書を書いている人が多かった。その他にも勝手に集まって議論したり、声を掛け合ってチームで仕事をしたり。自分がやりたいように仕事をしている、という印象だった。

新人研修もなければ、誰かに付いて仕事を覚えさせられることもない。「しばらく勉強しておれ」という感じだったので、仕方なく、社内に転がっている書類を暇に任せて読んだ。

当時、事務所のライブラリーの引き出しを開けると、マッキンゼーが作成した報告書や教育プログラムの一部がマイクロフィルムでファイル化されていた。「マイクロフィッシュ(microfiche)」と呼ばれるファイル管理システムで、マイクロフィルムをガラス板に挟んで顕微鏡の下に持っていくと報告書が読める。

マッキンゼーの創業は1925年。当時で創業から50年くらい経っていたが、よほど秘密に分類されているもの以外は、過去10年分くらいのレポートが、全部ファイルされて各事務所に置かれていた。守秘義務が徹底した今では考えられない。おおらかな時代である。

報告書を読んでいるうちに、MITや日立で書いていた学術論文やエンジニアリングのレポートとあまり変わらないことに気付いた。問題点や方法論を、理屈をこねて証明していくやり方は同じである。だから、読んでいても違和感なくスッと頭に入っていく。

ただ、この9年間、原子力しかやってこなかったから、言葉がわからなかった。たとえば「コスト」は「発電費用」と言い換えれば理解できる。しかし、電力会社に原子炉を売る仕事ではなかったから、「売上」の意味がわからない。

わからない言葉はたくさんあったが、あまり気にせず、とにかく仕事を理解するために、マッキンゼーが「自分たちがやった」と称する成果物を片っ端から読み込む。そんな日々だった。

しかし助走期間は短かく、入社2週間後くらいに前触れもなく所長に呼ばれた。

「サンフランシスコに日本企業のクライアントがいて、アメリカ進出の仕事がある。行って来い」

3か月程度の長期の仕事だという。そうした場合、マッキンゼーではパートナーを同伴していいルールになっている。

新居にも新しい職場にも腰が落ち着かないうちに再び荷造りして、9月中旬にはカミさんと二人でアメリカに渡った。

次回は「初仕事はサンフランシスコ」。7月2日更新予定です。

(小川 剛=インタビュー・構成)