幕府の命運を握っていた三浦義村

まず、ドラマの中で義時に毒を盛った3番目の妻ののえ=伊賀の方は、史実では義時の死後すぐに兄の伊賀光宗とともに、義時との子である政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍にしようとします。

伊賀の乱と呼ばれている反乱なんですが、その北条政村の烏帽子えぼし親、つまり実の親にひけをとらない世話役が三浦義村なんです。

幕府内で力のあった義村は、義時の嫡男・泰時ではなく政村のほうをバックアップしても別におかしくないんです。実際に、「義村が伊賀の方と密談した」という噂も流れたそうです。

尼将軍の政子はヤバいと見て、義時の弔事のために京都から戻ってきたばかりの泰時を、すぐさま執権の座に就かせます。そして、義村の邸宅を直接訪ねて、「あたしはね、あんたたちとは争いたくないのよ」と、義村が政村じゃなくて泰時のバックにつくという確約をもらいます。

結局、伊賀の方と光宗は流刑に処されましたが、義村は新執権の泰時のところにも出向いて釈明したので、大事にはいたりませんでした。政村もたいした罪には問われずに、その後7代目の執権になっています。

ドラマでは怪しい動きの連続だった

実は、主な登場人物は義時と近い時期に次々と死んでいるんです。かいつまんで言うと、三善康信は承久の乱の直後に82歳で病死、大江広元は義時が死んだ翌年の1225年7月に78歳で、政子も翌8月に69歳で没しています。

逆に長生きしたのが、この三浦義村ですね。史実ではずっと義時の盟友として北条をバックアップしたことになっていますけど、『鎌倉殿』で山本耕史さんが演じた義村は、義時の親友でありながら、なかなか食えない奴でしたね。

写真=時事通信フォト
山本耕史(=2018年10月24日、第19回ベストフォーマリスト授賞式。東京都港区の明治記念館)

『鎌倉殿』では、頼朝が死んだ後、源氏や北条を裏切ろうとする御家人は必ず義村を仲間に引き入れようと近づいてきて、そのたびにアヤシイ動きを見せていました。実際、3代将軍・源実朝暗殺の黒幕説が昔から言われ続けてきた通り、ドラマの中でも実朝、あわよくば義時まで公暁に殺させようとしましたね。

最終回での義村も凄く見応えがありましたね。

自分に盛られた毒を調達したこと、承久の乱で裏切りを画策していたことを知った義時と義村はサシで向き合いました。

毒入りかもしれない酒を前に、義村は義時に対する友情と、それとは裏腹のライバル心、嫉妬心なんかを全部ぶちまけていました。

そんな義村は義時が死んだ後、どうなったのでしょうか。承久の乱のちょっと前あたりから、義村の動きを振り返ってみますね。