もうひとつの「もしも」

さらに、後鳥羽院は、三寅の下向さえも、本心では反対していました。後鳥羽院は、幕府(武士)を思うようにできないことに不満を募らせていたのです。

後鳥羽院は、近臣・藤原忠綱を弔問の使いとして鎌倉に派遣していますが、その時、摂津国の長江荘・倉橋荘の地頭を免職し停止するように、北条義時に要求しています。

摂津国豊島郡(豊中市)の長江荘は、後鳥羽院の愛妾・亀菊に与えられていました。長江荘の地頭は、義時でした。

後鳥羽院としては、実朝死去早々に、幕府の出方を見てきたといえましょう。また、この要求を呑めば、親王将軍を認めてやるぞくらいに思っていたかもしれません。が、後鳥羽院の要求は通りませんでした。幕府は「頼朝の時、勲功の賞により与えられた所領(地頭職)は、罪もないのに改めることはできない」という結論に達したのです。

これは、幕府としては当然の結論でしょう。しかも、幕府は、北条時房に千騎の軍勢を率いて上洛させ、地頭改補を拒否。親王の下向を求めたのでした。自分(後鳥羽院)の意向に従うどころか、武威をちらつかせ圧力をかけてくる。(何たることだ)と後鳥羽院は怒りと失望をにじませたはずです。そして「幕府(武士)を思うようにできない」ことへの不満をさらに募らせたと思います。

この幕府の対応もまた承久の乱の導火線となったように感じます。

後鳥羽天皇像[部分・水無瀬神宮所蔵・伝藤原信実筆]〔写真=『原色日本の美術 21 面と肖像』(小学館)収録/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

もし、幕府が後鳥羽院の要求を受け入れていれば、院も気を良くして、幕府への不満を高めることはなかったでしょう(念のために言っておくと、私は別に後鳥羽院の要求を呑まなかった幕府が悪いとか良いとかの話をしているわけではありません)。

後鳥羽上皇の怒りの正体

承元元年(1219年)7月には、源頼茂(摂津源氏・源頼政の孫)が「自分が次の将軍になるべきだ」と考え挙兵。追討の院宣が発せられ、在京の武士により、頼茂は討たれることになります。しかし、その過程で、大内裏が焼けてしまうのです。

その衝撃は、後鳥羽院をひと月も寝込ませるほどでした。大内裏焼亡も、もとはと言えば、幕府の将軍職をめぐる争いに端を発するもの。それに朝廷が巻き込まれて、最終的には大内裏が燃え、由緒ある宝物までもが焼けてしまった。後鳥羽院からすれば(もういい加減にしてくれ)と思うと同時に、幕府(その実質的支配者である北条義時)へのいら立ちをさらに強めたことでしょう。

大河ドラマで後鳥羽上皇を演じる俳優の尾上松也さんは「鎌倉や武士に対する怒りというよりは、ピンポイントで義時の自分を敬ってこない態度に怒りと野望を募らせていくというのが肝かなと思います」(後鳥羽上皇役・尾上松也さんインタビュー。「鎌倉殿の13人」ホームページ)と述べていますが、これまで見てきたように、敬ううんぬんの問題だけが、上皇挙兵の要因ではないでしょう。