1987年まで敷かれた戒厳令

裁判官、医師、役人らが次々と投獄され、拷問を受け、多くが殺害された。基隆では街頭に検問所を設け、北京語がうまく話せない市民を全員逮捕し、針金で掌を貫いてつなぎ、粽のように束にして、そのまま基隆港に投げ込んだという。旧日本兵や学生たちが抵抗運動を起こすも、あえなく制圧された。この事件によって多くの台湾人エリート、市民が殺害、処刑され、その財産や研究成果を接収された。その犠牲者の数は今もって不明だが、一般に2万8000人と推計されている。

この時の戒厳令は1947年5月にいったん解除されるが、2年後、国共内戦に敗れた蔣介石政府が1949年5月19日にあらためて戒厳令を発布し、それは1987年に解除されるまでの長きの間、台湾を中華民国政権の恐怖支配のもとに置いた。この38年間は白色テロ時代と呼ばれている。

血腥い歴史の上に成り立つ台湾の民主主義

二・二八事件の真実は、1987年の戒厳令が解除されるまでタブー視された。戒厳令解除後はその真相解明と犠牲者の名誉回復の動きが始まり、1989年に記念碑が建てられ、1995年には李登輝総統が公式謝罪を行い、遺族への補償問題に取り組んだ。

福島香織『台湾に何が起きているのか』(PHP新書)

1996年、当時の台北市長の陳水扁(のちに総統)が、台北新公園の名称を二・二八平和記念公園に改め、その中に当時、台湾人デモ隊が占拠したラジオ局・台湾放送局の建物を改築した台北二・二八記念館が1997年2月28日の事件50周年目に開館された。さらに陳水扁政権時代の2006年には旧台湾教育会館(のちの米国文化センター)を二・二八国家記念館に改築することを決定。2011年2月28日に正式に開館された。

台北に行けば、このどちらかの記念館に私は必ず足を運ぶ。歴史にIFはないが、もし初代台湾行政長官が陳儀のような無能で卑劣な人物でなければ、その後の台湾の運命も、ひょっとすると世界の枠組みも、大きく変わっていたかもしれない。

だが、この血腥ちなまぐさく悲惨な歴史を乗り越えてきたからこそ、台湾が自力で成熟した民主主義国家を作り上げてこられた、ともいえる。台湾が中華民国でなく、台湾であり続ける原点となった事件といえる。

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