対話に応じるふりをして民間人へ無差別攻撃

3月に入り、この台湾人蜂起は全台湾各主要都市に広がった。この時、外省人(中国人)をリンチし、死者も多数出ている。台南では台南飛行場が占拠され、旧日本軍の飛行機で東京に飛んでいき、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の直接占領を求める動きもあったが、飛行機が飛ばずに果たせなかったという。

高雄では3日夜、数千人が警察局を包囲し、外省人に対する略奪、リンチも広がった。これに対し高雄要塞司令の彭孟緝ほうもうしゅうは、いち早くデモ隊の武力鎮圧を開始した。だがこれはデモの鎮圧というよりも、民間人への無差別攻撃であった。

国民党政府は当初、あたかも本省人側との対話に応じる姿勢を見せていた。3月2日に「二・二八事件処理委員会」を設立し、事態の解決に努めるそぶりを見せた。高雄市でも3日に「二・二八事件処理委員会」を発足させ、市政府講堂で会議を開き、要塞のある寿山上の彭孟緝の下に代表者を派遣し、軍の市民への射撃や委員会への脅迫を停止し、委員会が改革案を提出するまでの間、軍を営内から出さないよう求めた。市長の黄仲図、市参議会議長の彭清靠や、林界、涂光明、曽鳳鳴ら高雄市の行政官や官僚らが代表の任に当たった。

弾圧のターゲットは日本統治時代のエリート層

だが、彭孟緝はやってきた彭清靠、林界、涂光明、曽鳳鳴の4人を縛り上げ、彭清靠一人を人質にとり、他の3人を射殺、黄仲図だけを連絡者として下山させた。その後、彭孟緝は軍によって市政府講堂で会議中の委員会を包囲し、寸鉄帯びない参会者や市民を機関銃で掃射した。

このとき議員を含む数十人が死亡し数百人が負傷。さらに市街戦が展開され、阿鼻叫喚の虐殺が繰り広げられた。犠牲者は1000人近くに上ったという。彭孟緝が後に白色テロの実行者として「高雄屠夫」(高雄の虐殺者)の異名をとるようになる、その最初の殺戮事件「高雄大虐殺」である。

陳儀は話し合いに応じるふうを見せながら、その実、南京の蔣介石に援軍の派遣を求めて、時間稼ぎをしていた。8日午後、大陸から援軍が到着し、国民党政府による大弾圧が始まった。高雄大虐殺は序章にすぎなかったのである。1947年3月9日に戒厳令が発布された。軍のターゲットは日本統治時代に高等教育を受けたエリート層、知識人たちだった。