「犬が去り、豚が来た」
しかも、台湾にやってきた中華民国人は自ら戦勝国人という驕りから、台湾人に対し横暴を極め、略奪、強姦などほしいままにした。
その無秩序ぶりは、米国駐台陸軍戦略情報チームが1945年10月に出したリポートに詳しい。当時の台湾行政長官の陳儀は接収の重責を担っているにもかかわらず、民情に暗く、施政は極めて偏向し、台湾人を軽蔑した。また官吏の風紀は腐敗し、経済は悪化し、物価は暴騰し、失業は深刻となった。
1946年4月に米軍情報当局が、当時の町の声を収集した際、ある車夫が「日本政府は一匹の犬みたいなものであり、吠えるし噛むが、秩序を保つことはできた。中国政府は一匹の豚のようなもので、寝て食うだけで何の役にも立たない」と発言したことが記録されている。
このころから「犬が去り、豚が来た」という表現で台湾人は、日本統治時代のほうが中華民国統治よりましだという認識をもっていたことが、当時の幾多の記録からわかる。
中国軍への憎悪が爆発した「二・二八事件」
その中華民国、国民党軍への憎悪は1947年2月28日、二・二八事件という形で爆発するのだった。この事件はその後、「外省人」による「本省人」への弾圧の象徴的事件として記憶され、本省人=台湾人のアイデンティティ形成につながる。
二・二八事件の直接のきっかけは1947年2月27日、台北市の路上でヤミ煙草を販売していた寡婦、林江邁を中華民国の官憲が摘発した際、土下座をして許しを懇願した女性を銃剣の柄で殴打し、商品、売り上げを没収した事件だった。
この事件を目撃した台湾人群衆が官憲を取り囲んだため、怯えた官憲側は民衆に威嚇発砲し、その弾に当たった台湾人通行人1人が死亡した。この事件に、日ごろから中華民国への不満を溜め込んでいた民衆の怒りが爆発し、28日に大規模な抗議デモが台湾省行政長官兼警備総司令の陳儀がいる行政長官公署を取り囲んだ。
君が代を合唱して中国人を排除
警備の衛兵は屋上から機関銃でデモ隊を掃射し、多くの市民が死傷した。これに台湾人民衆はさらに怒り、政府の施設を襲撃し、外省人の商店を焼き討ちした。
このときデモ隊は、日本統治時代に台湾人が全員歌えるように教えられた「君が代」を合唱し、本省人と外省人を区別する手段とした。「君が代」を歌えない者を外省人として排除しつつデモ隊は行進し、ラジオ局を占拠して軍艦マーチを流し、日本語で「台湾人よ、立ち上がれ」と檄を飛ばした。