「三丁目の夕日」に見る「家族共同体原理」とは
こうして、「年齢が社会を秩序づける」という原理が、戦後わが国において強まってきた。半面、年齢以外の社会を秩序づける原理の力はその分、弱くなる。
第一に、家族という秩序づけの原理は弱くなる。
「ALWAYS三丁目の夕日」というコミックと映画に、ノスタルジーなのか憧れなのか、人気が集まる。舞台は昭和30年代。どこにでもあったような商店街の自動車修理業のお店を営む家族が主人公。映画の修理工場ではお父さんが頑張っているが、八百屋さんや魚屋さんなどの小売商店になると店で頑張るのはお母さん。お父さんは、仕入れや組合などもっぱら外の仕事をする。子供たちも、店の手伝いをさせられる。店の手が足らないと、店の奥に住んでいるお爺ちゃんやお婆ちゃんも店に出てきて手伝う。商店は、家族全員で経営されていた。
そうした商店でも、働き盛りの夫婦が中心になって経営するということでは、それなりに年齢原理は働いてはいるが、それほど強くはない。というのも、義務教育の年齢の子供であろうと、会社で言えば退職しているお年寄りであろうと、手伝いできる力があれば手伝ってもらうという「家族共同体原理」のほうが優勢だったからだ。なかには、「勉強するより、店の手伝いをしろ」というお父さんもいたほどだ。
しかし、徐々にそうした小売商店は消えていく。自信をなくした商店主たちに、「子供は、同世代の子供たちと一緒に、まずは一所懸命勉強すべき」という考えが浸透する。年老いた両親も、店にあった住まいを離れ郊外に移る。
こうして、商店とその町が消えていく。その姿は、家族という「共同体原理」が、友人という「年齢原理」に席を譲る姿でもあったのである。商店とその町が消滅するのと軌を一にして、地域共同体という秩序も弱体化する。どこの町を見ても、昔のように幼児から小学生まで一緒になってチャンバラごっこや月光仮面ごっこをして遊ぶ姿を見ることはない。そうなのだ。家族であれ地域であれ、共同体。共同体はそもそも世代を横断する性格を持つ。その限りにおいて、共同体が年齢別薄切り原理と相いれないのははっきりしている。