家族のまとまりよりも、友達付き合い優先という感覚が芽生える。家族一緒の食事の機会が減り、家族だんらんの時間でも子供たちはその場を離れ自分の部屋に入って電話やメールで友達と連絡を取り合う。よく見る風景だが、その風景は、家族という共同体原理が薄れ、年齢原理へと、社会の編成原理が優勢となっていることを示すものである。

私たちの社会では、あらためて考えてみると、6歳から18歳まで毎日ほぼ10時間近く、同年の仲間と時間を過ごすようになっている。そして、そのことが望ましいことだという社会の風潮がある。「何より友人が大切だ」と、誰もが信じて疑わない。こうした規範が浸透すると、多くの人にとって、その世代以外の人と接する時間は(家族と過ごす時間を含め)、限られたものとなる。そのことを誰も不思議とは思わない。こうして、同一世代ごとに薄くスライスされた形で仲間集団が形成されることになり、その集団規範は弱まる気配はない。

そこから、いろいろなことが帰結しそうだ。

彼らにとって、友人との付き合いが彼らの最高の規範になる。そのために、家族や地域と一緒にいる時間を犠牲にしてもよいと考える。仲間との交流のために必要となるケータイにはいくらでもお金をかける。人生の伴侶も、自分の世代から選ぶ(自分の世代外の人と親しく話す機会も話題もない!)。誰かと親しくなろうとするとき、つい「何年生まれ?」と聞いてしまう。2~3歳離れるともう話が通じない。人生のプランを、小学校から年金受給の年まで年齢に沿って描く。

こうしたことを、誰も不思議とは思わない。世代の規範が社会を覆うというのは、こういうことをいう。同一世代に閉じこもり、他の異質な世代の価値とは触れ合わないようになった世代。彼らは、決して打たれ強くはないはずだ。本稿の最初に示した記事は、そうした社会を示しているのではないかと不安になる。