義時の死の真相

義時の死については、鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』に詳しく記載されています。同書の同年6月12日の項目には、義時が病となったとの記載があるのです。前々から体調不良だったとのこと。しかし、今回はかなり危うい状態となったので、陰陽師おんみょうじ5人が招集されました。

陰陽師は義時の病について占いますが「大事ない。午後8時ごろになれば回復してくる」との結果でした。念のため、病気平癒の祈禱きとうは行われました。が、陰陽師の祈禱や占いの甲斐なく、義時の病状は悪化。翌日の午前中には亡くなってしまうのです。

同書によると脚気と急性胃腸炎が死因と記されています。一方、公家・藤原定家の日記『明月記』には、真偽は定かでないものの、義時の妻(伊賀の方)が義時を毒殺したかのような文章が記されているのです。病死か毒殺か、ドラマにおいて、義時はどちらで死ぬかが注目されます。

そして、ドラマは、義時の死で終幕になるかという問題もあります。義時の死の直後、伊賀氏が排斥された伊賀氏の変が起こりますが、そこまで描くのか。

それとも、義時の後継となる息子の北条泰時が御成敗式目を制定(1232年)するまでをざっくりとでも描くのか。さすがにそこまで描く余裕はないので、女優・長澤まさみさんのナレーションで語られるだけかもしれませんが。

とにかく、最終章が始まったばかりの『鎌倉殿』には見どころがたくさん。これからも話題をさらっていくことでしょう。

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