なぜ、「勉強しなさい」と言ってはいけないのか

「勉強しなさい」というのは、親から子どもに対してよく出る言葉のようだが、教師がこれを発していることもある。勉強ができないと将来困るだろうという親切心、もしくは教師としての責任感からである。

結論から言うと、不親切教師は、決して勉強しなさいとは言わない。この言葉が、子どもの主体性を大きく損なうことを知っているからである。

「勉強しなさい」は明確な命令であり、「あなたのため」という親切心に満ちた名目、善意による行動の支配である。この支配が成功した暁には、親や教師たちはずっと子どもの勉強の面倒を見るはめになる。子どもは支配されている以上、自分で決められなくなるからである。大人の顔色をうかがうことが、行動の価値判断基準になる。そして、勉強するかどうかということは、子どもの課題ではなく、周囲の大人の課題にすり替わる。主体性をもった子どもとは真逆の方向に育つ。

写真=iStock.com/Zhonghui Bao
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例えば、漢字練習を全くやらない子どもがいるとする。この時、多くの親切な親や教師は「やりなさい」という。しかし、漢字練習をやるべきかどうかは、明確な子ども自身の課題である。断じて、親の課題でもないし、教師の課題でもない。

本人が必要だと判断したらやるだろうし、不要だと判断したらやらない。自身の判断による行動の結果の全責任を、自分自身が請け負う。人生における大切な原理原則を学ぶ貴重な場である。絶対に大人が奪ってはいけない。

その大事な学びの場である子どもの課題を大人が引き受けてしまったら、その子どもに対しその後もずっと面倒を見て、手出し口出しをし続ける必要が出る。勉強は、学生時代だけでなく、一生涯を通して続くものだからである。

そしてさらに悪いことに、勉強のあれこれに口出しすることで、子どもにとって次のような思考法が出来上がる。

「勉強ができない」=「親が悪い」or「教師の教え方が悪い」=「自分に責任はない」

勉強が、明確に他人の課題になる。そして悪いことに、子どもがこの思考法に一度染まってしまうと、より勉強しなくなり、学力が落ち続けるという悪循環に陥る。

なぜそうなるのか。

それは「勉強しない」という選択肢をとり続けることで、「(やっても)できない」から逃れ続けられるからである。「勉強しなさい」と言われてやっていても、なかなかやる気が起きない。そして、予想通り結果が悪いと、「次にがんばろう」と思う代わりに「やらないでおこう」という逃避の心理が無意識に働く。

「やってもできない可能性」を潰す方向に向かうのである。つまり、ずっと勉強しなければ、できない自分が証明されることはないのである。行動しない方が「安全・安心」が保証されるのである。

この傾向は、失敗を恐れて行動しない、という態度につながる。人間は、失敗しないことより、試行錯誤する人になる方が大切である。それを学ぶには、自分でチャレンジするしかないのだが、何でも周りのせいにする人間では、どうにもしようがない。

松尾英明『不親切教師のススメ』(さくら社)

大原則は、あらゆる他人の課題に対して、決して首を突っ込まないことである。「この絵の葉にどの色を塗るか」「おかわりをすべきかどうか」「休み時間は外に出るか中で過ごすか」といった日常生活の小さな課題はもちろん、子どもの課題に決して口出しをしてはいけない。

教師の為すべき努力は、子どもに「勉強をしろ」と強要することではない。勉強が楽しい、やりたいと思えるような環境を整え、授業をすることである。新しいことを知る喜び、学ぶ喜びに触れられる機会を、授業を通して提供することである。

勉強は本来、楽しい。それを、まずは大人の側が腹の底から実感すること。そうすれば「勉強しなさい」という言葉は絶対に出ようがない。もし子どもからいつか「勉強させてほしい」と言ってくる日を求めるなら、こちらからは一切言わないことである。

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