子供が自ら机に向かって学ぶようにするために親はどうすればいいの。現役小学校教員の松尾英明さんは「親や教師の務めは、子供の主体性を高めることです。『勉強しなさい』と親切心や大人の責任感などから、子供に声かけするケースが多いが、逆効果です」という――。

※本稿は、松尾英明『不親切教師のススメ』(さくら社)の一部を再編集したものです。

漢字の練習をする子供の手元
写真=iStock.com/Hakase_
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教育現場で飛び交う「主体性をもたせる」という言葉

不親切教師の基本スタンスは常に子どもの主体性向上をねらうことにある。

しかし現在の学校教育には「主体性をもたせる」という言葉が平気で横行している。明らかに矛盾しており、「もたせる」と使役の助動詞を使っている時点でそもそも全く主体的とは言えない。

主体性と関連して、次の本の中に「自由学園」創設者の羽仁もと子さんの考える「自由」についての言葉が紹介されている。(渡辺和子『愛と祈りで子どもは育つ』、PHP文庫 106頁)以下、引用する。

「あなたがたには、脱いだはき物をそろえる自由があります」というのです。それは、「揃えない自由もある」ということなのです。どちらがより良い生き方なのか、脱ぎっ放しにするほうか、揃えるほうか、そのより良いほうを考えて、選ぶということなのです。日々の生活の中での小さな自由の行使が、実は大切なのです。「自分らしさ」を作るのは、このような小さな自由の行使の積み重ねなのです。

この言葉の中には、主体性や自由といったことの真理が含まれている。それをするのが自由の行使であるという自覚は、意識していないとなかなか難しい。日常のすべてが「当たり前」になっているからである。

学級会をやっていると、議題で「掃除を真面目にしない人がいる」ということがよく上がる。要するに、真面目にやって欲しいという要望である。何年生の学級でも、必ず出る。これはなかなか考えどころである。

話し合いをしても大抵着地点が定まらないが、毎回一つだけ言えることがある。それは、真面目にやっている子どもの中に、進んでやっている子どもが一定数いるという点である。つまり、誰かが見ているからとか、得とか損とか関係なく、やる人間はやるということである。やる方が良いと考えるからやる。主体性に基づいて取り組んでいる子どもが必ずいるのである。

つまり「はき物を揃える自由」と同じである。どちらが自分にとってより良い生き方なのか。それを主体的に選びとり、行動する。それこそが、自由である。やらされてやるのは、完全に意味がないとは言わないが、効果の方向が全く変わってくる。掃除などは、特にここが大きく分かれるところである。

学校以外の生活でも、やらない人はやらないし、やる人はやる。本人の選択次第である。他人がどうかにはあまりこだわらず、やると自分で決めた人は、気にせずやる。掃除に限らず、勉強や宿題、仕事や趣味やボランティア活動、あらゆることに言える「自由」の考え方である。

つまり、子どもの主体性向上に必要なことの一つに、自覚があると言える。何を良しとして、何を望ましくないとするのか。どちらの行動をとることもできるが、まずはその価値を知る必要がある。「はき物を揃える」という単純な行為一つをとってみても、まずその価値を知らなければ主体性をもって行動することはできない。

子どもに教えるべき点はそこである。各行為の自覚を促し、その上で、子どもが主体性をもって行動を選びとることができるよう、不親切教師は少し距離をとって見守っていく。