受け身ではなく、能動的なのが「推し」

どうでしょう? これらの例から、ただのファンではなく、「推し」を推すファンのありようが少し見えてきましたか? ただのファンと「推し」では、好きの程度が異なるのはもちろんです。けれど、それよりも大きなポイントは、ファンである自分が「なにをするか」にあります。

私の同僚たちのように、好きな対象のイメージをもとになにかを生成してしまう、好きな対象と同じことをしてしまう、好きな対象の世界を現実で体感しようとしてしまう、など「推し」をめぐってファンはいろいろなことをしています。その対象をただ受け身的に愛好するだけでは飽き足らず、能動的になにか行動してしまう対象が「推し」である、とここでは考えます。

「こころが変化したから行動が変化する」だけではない

対象をただ受け身的に愛好するだけの段階から、好きという情熱に突き動かされ、なにかしたい! という気持ちになったら、まずはなにをするでしょう。

応援する、ほかの人にすすめる、グッズを集めるなどは、「推し」を推す、はじめの一歩です。自分が好きなものが活躍している姿を見て、「すてき! 頑張れ!」と言いたい、自分が好きなものをもっと多くの人に知ってもらいたい、自分が好きなものをもっといろいろ見たい、そんな気持ちが、好きな対象をただ享受するだけの立場から、自分が対象に「なにかをする」行動へと駆り立てます。

テレビや雑誌やインターネットで見るだけだったアイドルやアーティストのライブへ行って声援を送ること、見る・読むだけだったアニメやマンガの感想をSNSに書いてみること、ポスターやいろいろなグッズなどを集めたり部屋に飾ってみること……ファンとして「なにかをする」ことは、その人を受動的なファンから能動的なファンへと変化させます。

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自分から対象に働きかけることによって、自分は変化するのでしょうか。つまり、受動的なファンから能動的なファンへと行動が変化した時、ファンである自分のこころは、なにか違うものになっているのか、ということです。

それは逆でしょうって? こころが変化したから行動が変化したのであって、だとしたらこころが違うのはあたりまえなのではないか、そう思うのはたしかに当然です。

認知科学や心理学では、身体性認知(embodiedcognition)という考え方があります。それは、人間の認知活動をこころと身体と環境とのダイナミックなやりとりとしてとらえます。身体はこころの単なる入れ物ではなく、環境や状況は必要とする情報源や行動するだけの場所ではなく、感情は認知を妨害するものではないのです。身体や環境や感情は、人間の認知活動とわかちがたく結びついていると考えます。身体性認知は、こころから行動を考えるだけでなく、身体の行為から認知をとらえなおそうというアプローチでもあるのです。