深刻な人口減少で伝統芸能は継承の危機に

祝さんは私の佐渡における能楽の問いかけに応じる傍ら、同席していた芸術祭代表の吉田モリトさんに「あなたも能を習ってみなさい」と熱く勧誘した。

「もう、私の会は平均年齢が80歳だよ、ほんとに高齢化でこのままじゃなくなってしまうよ」と言っていたのが印象的だった。

実際にその後、祝さんの舞う姿を2度拝見させていただいたが、他の仕事を持っている一般の方が集まって佐渡の能を継承している姿は牧歌的で、佐渡ならではのほんわかとした表現になっているような気がした。

そして、演じている方々の大部分は確かに高齢だった。

実際に能だけではなく、調べてみると数年前まであった祭りや、芸能団体がどんどんなくなっている状況がわかった。

5年ごとに約5000人の人口減少が起こっている島なのだからそうなるのも当然ではある。

佐渡は能の大成者・世阿弥が流された地として知られているが、実際に能がここまでの広がりを見せたのは江戸時代初期からである。

金銀の資源に恵まれた佐渡は幕府の天領(直轄地)となり、1604年、初代佐渡奉行として派遣された大久保長安が能楽師の常太夫つねだゆう杢太夫もくだゆうほか、囃子方・狂言方一行を連れてきたことが大きく影響しているとされているらしい(注)

(注)https://www.nohgaku.or.jp/journey/media/sado_noh_reason

金銀山がさまざまなものを引き寄せ生み出した源泉だったことを私は理解した。

10年以内になくなると言われる岩首昇竜棚田

佐渡をテーマにした作品を撮影するにあたって、私は島内のさまざまな候補地を巡った。

佐渡金山のほか、大間港、大野亀、宿根木、佐渡奉行所跡など、世界文化遺産にも申請されているような個性的で歴史的な場所はいくつかあった。

そんな折、私は「岩首」という集落の「岩首昇竜棚田」と呼ばれる場所に何気なく案内された。

岩首昇竜棚田の風景=著者撮影

岩首集落は現在約120人が暮らす小さな集落で、明治の時に、七つの村が集まって現在の形になった。主な産業は農業だ。

棚田の地権者である大石惣一郎さんの軽トラックで話を聞きながら、ワインディングロードをのぼった先には、海沿いの集落の標高30mから470mまでの間に棚田が広がっていた。直線距離約2km、ダムもない、溜池もない、落葉紅葉樹の森の水のみで成り立つ豊かな棚田である。

400年以上の歴史を持ち、江戸時代に開墾された急峻な土地だった。山の上の不便な場所に隠れるように棚田があるのは、一説には年貢の取り立てを避けるためらしい。

棚田の地権者の多くはかなり高齢化してしまい、あと10年はこの光景は持たないだろうと言われている。実際、昭和20年に70~80人の地権者が約300ヘクタールを管理していたが、現在は地権者は31人となり、棚田の面積自体も約130ヘクタールにまで減少している。

平地に比べて効率が悪い棚田の米作りは儲かるわけがなく、年寄りが年金を切り崩してなんとか気持ちで維持をしている状態だという。

大石さんもまたその例に漏れない。いつも農作業に働き詰めだったにもかかわらず、母親は「金がない」しか言わず、この棚田をなんの価値もないものだと思っていた。将来自分が継ぐことは全く考えていなかった。だが、自身がこの棚田の跡継ぎになって田んぼからこの景色を見た時、思いは180度変わった。

「この光景が消えることは悲しすぎる」

それからは、なんとかこの美しい景色を守るために動いているという。