デジタル庁も自己情報コントロール権の承認に消極的

さらに、デジタル庁においても、自己情報コントロール権の承認に消極的なスタンスが垣間見えます。実は、2020年11月の段階で、政府のデジタル改革関連法案ワーキンググループが公表した「デジタル社会を形成するための基本原則(案)」では、「公平・倫理」という項目の中に「個人が自分の情報を主体的にコントロール」という文言が書かれました。

私は、ついに日本でも自己情報コントロール権が正式に承認されるのかと期待したのですが、この基本原則をベースに制定されたデジタル社会形成基本法(2021年5月制定)では、この文言は使われず、デジタル庁におけるその後の議論の中でも「コントロール」の具体的なあり方について積極的に話し合われた形跡は見られません。

経産省は、2022年1月に、Society 5.0を実現していくための新しいガバナンス(アジャイル=俊敏なガバナンス)の形式を示した「アジャイル・ガバナンスの概要と現状」報告書(案)を公表しました。その中では、プライバシーを「本人の同意の有無にかかわらず、パーソナルデータの客観的に適正な管理を求める権利」と定義し、同意や自己決定を本質的要素とする自己情報コントロールの考えを黙殺しました(21年7月に公表された「GOVERNANCE INNOVATION Ver.2 : Designing and Implementing Agile Governance」では、プライバシー権の定義として、前述の適正な管理を求める権利と自己情報コントロール権とが併記されていたのに対し、22年1月の報告書(案)では後者が削除され、前者だけが残されたのです。同年4月時点)。

権利を認めることはむしろイノベーションを促進する

このような政府の考えの背景には、デジタル社会形成の基本方針として自己情報コントロール権を正面から認めることは、デジタル化やイノベーションの妨げになるという思考があるように思います。個人データを摩擦なくスムーズに流通させていくには、個人の同意は邪魔になるという発想です。

しかし、このような発想とは逆に、自らのデータに対する権利性をしっかりと認めることが、情報の利用・管理に対する信頼の形成や安心感の醸成につながり、かえってデジタル化やイノベーションを促進することも十分考えられます(逆に、日本では、自己のデータに対する個人の権利があやふやであることが、情報の利用・管理に対する信頼感の低下を招き、イノベーションの進展を妨げている可能性があります)。

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私の所属する慶應義塾大学グローバル・リサーチ・インスティテュート(KGRI)がNECの委託を受けて行った2021年の国際的な調査(アメリカ、イギリス、フランス、日本、ドイツの20歳~69歳の男女を対象に行った意識調査)では、日本人は、プライバシーの権利の内容・性質について「わからない」と答える割合が他国の国民に比べて圧倒的に多いにもかかわらず、プライバシー権侵害については他国国民と比較して最も敏感に反応することがわかっています。

要するに、権利概念があやふやであることが、逆にプライバシー権侵害に関する主観的・感覚的な過剰反応を引き起こしている、ということになるわけです。このことは逆に言えば、個人が自己のデータに対してどのような権利をもつかが明確になっているほうが、過剰反応を抑制でき、データ利活用が進む可能性を示しています。