声だけでしゃべることへの罪悪感
【Eさん】私の祖父、祖母も聴こえなかったので、実家とか、おじいちゃんの家とかに集まるときは、私と叔父さんが聴こえるんですけど、母の弟。もちろん手話ができて。叔父さんの奥さんは聴こえるけど簡単な手話しかできなくて、会話ってなると、手話、できなくて。お正月に集まったときの感じだと、その奥さんが孤立していて、なかなかない、逆転のことが、今、なぜか、ぽっと出てきました。
叔母さんは、私にすごくよくしてくださったけど、やっぱり祖母と、叔母さんは、100パーセントのコミュニケーションができないから、うまくいかなくて。正月のときとかお盆とかのときは、ほんまに2つの世界があったなっていう印象。今はもう祖父も祖母もいないので、あんまり集まるってことないんですけど、どうしても、声だけでしゃべるとすごく罪悪感を感じる。家庭のなかでも。
コーダが感じる孤立と手話への強制
ろう者が多かった家族のなかで、健聴者である叔母は孤立していた。と同時に、「声だけでしゃべるとすごく罪悪感を感じる」という手話への強制力も受ける。コーダとは、〈手話への強制力と手話を使わないことへの罪悪感を感じるヤングケアラー〉だ、と定義できるかのようだ。健聴者の孤立と手話への強制、という表裏一体の状態は原体験となる。
「叔母さんは、私にすごくよくしてくださった」と、ろう家族のなかで聴こえる者同士、聴こえない者同士がまとまる。おそらくろう者コミュニティは自然と苦労を共有するピアグループとなり、ろう者のコミュニティのなかにいる少数の健聴者同士もまた(ろう者が健聴者の世界で抱えるコミュニケーションの難しさを反復するがゆえに)ピアの関係になる。言葉をめぐるあいまいさ、コーダ同士のあいまいさとは対比される、明瞭で親密なコミュニティだ。