高い月謝を払わなくても才能を発現する機会は得られる

しかし覚えておいてほしいのは、基本的に人間、いや生物が遺伝的に持っている能力というものは、いきなりピアノだとか水泳だとか、そろばんだとか、そんな大きな単位で発現するものとは限らないということです。

はじめは鍵盤からいろんな音が鳴るのが面白いとか、プールの水が自分の体を支えてふわっと浮かせてくれる感じが気持ちよいとか、そんな些細なポジティヴ経験から始まり、時間をかけて徐々にピアノの能力、水泳の能力へと育っていくのです。そしてそのような経験をする機会は、高い月謝を払わなければ受けられない習いごとの教室でなくとも、幼稚園にあるピアノや海水浴でも得られます。

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そして子ども時代の膨大な時間は、著しく貧困だったり虐待を受けたり、ヤングケアラーでいつも病んだ親の介護をしなければならないような家庭でなければ(そこが問題なのですが)、それらをある程度の豊かさで経験できる機会を与えてくれます。

さらに言えば、人はある程度の貧しさや逆境の中でなければ、本当に必要なことには気づかないということがあります。逆境にいる人も、すぐに手に入らなくとも、いつか手に入れようという夢だけは大切に持っておきましょう。それが人の脳が持つ予測器としての働きの表れかもしれないからです。

いきなり巨大なホームセンターに行っても、欲しいものはかえって見つけにくいもの。むしろコンビニもないような村に、たった一つしかない小さなよろずやの棚の中に、案外何か欲しいものが見つかりやすいのです。それに手ごたえがあったら、徐々にもっとよいものを探しに、街のホームセンターへ行けばいいでしょう。

狩猟採集民はどのようにして素質を見いだしていたか

能力は些細で具体的な事柄に対して特異的に発現する、というより、生物は身の回りにある環境を自分の遺伝的素質に応じて切り取っていると言った方が近いのかもしれません。かつてホモ・サピエンスが狩猟採集民だった頃の自然環境をちょっと想像してみましょう。

サバンナや熱帯雨林など、ホモ・サピエンスを取り巻いていた自然は、真っ暗な夜空いっぱいに輝く天体、変化に富んだ地形や天候、そこに息づくたくさんの動植物などで、とても多様性に富んでいたはずです。動き回ることが好きな子どもは、その辺に落ちていた枝を拾って振り回したり、大好きな木の実を見つけてほおばったり、川で魚捕りをしたりしていたでしょう。

運動能力の高い子どもは高い木に登って蜂の巣捕りに挑んだり、好奇心旺盛な子どもは仲間の誰も行ったことのない森の奥まで探検しに行ったかもしれません。さらに、狩猟採集民の生活では、大人たちの仕事も可視化されていました。大人たちが残された足跡からどんな獣がいるのかを推測して狩りを指揮したり、蔓を採ってきてかごを編んだりする姿を、子どもも日常的に見ることができました。

そんな中では、将来大人になったら自分の持っている素質をどう生かせばよいのかが、具体的でわかりやすかったとも言えますね。