約3年間寺院に籠ってやっていたこと

公暁は別当職に就いた直後から、一千日の参籠(寺院などに籠って祈願すること)を始めたという。一千日というと約3年である。公暁はそれほどの長期間にわたり、何を祈願しようとしたのだろうか。それは、実朝の死を願う祈願だったかもしれない。実朝を呪い殺そうとしたのではないか。

実朝が死んだ後は、自分(公暁)が将軍となる、自分にはその資格がある。そうした想いを公暁が深めていったとしても不思議ではない。

ところが、実朝や北条氏は、実朝後継の将軍として、京都から親王を呼ぼうとしていた。これが実現してしまえば、公暁が将軍となる機会は閉ざされてしまう。

公暁の焦りは募り、運命の建保7年(1219)1月27日の夜を迎えるというのが、私の見立てである。

実朝の首を持って向かった先

本稿の冒頭付近に私は「公暁には親の仇を討つ以外にも目的があった」と書いたが、その目的とは、将軍になることである。実朝暗殺後の公暁の言動を考えたら、将軍就任への野心が「主」(本音)で、親の仇を討つことが「従」(建前)と考えられないこともない。

1月27日、雪が降るなか、実朝の右大臣拝賀の儀式が鶴岡八幡宮で行われようとしていた。奉幣を終え、石段を下りて、林立する公卿に会釈して通る実朝に公暁は刀で襲いかかる。そして、首を討ち取り、逃亡するのであった。

源実朝が暗殺された場所(写真=Urashimataro/PD-self/Wikimedia Commons

この襲撃には、公暁と同じような格好をした法師が加わっている。彼らは、実朝の供の者を追い散らし、教育係で側近の源仲章なかあきらを斬り殺す役割を果たした(『愚管抄』)。

事前に公暁はその門弟に実朝暗殺を打ち明け、協力を求めていたと言えよう。ちなみに、事件後、鎌倉武士たちは、公暁の本坊を襲撃し、公暁門弟たちを制圧している。

実朝の首を持ち、公暁が向かった先は『愚管抄』では三浦義村のもとである。公暁は義村に対し「今は我こそが将軍である。そちらに行こう」と言い送ったという。

『吾妻鏡』においては、暗殺後、公暁は後見人であった備中びっちゅう阿闍梨あじゃり雪下ゆきのした北谷きたがのやつの邸に向かう。そこで食事を供されているが、食べている最中も、公暁は実朝の首を抱えていたようだ。公暁は、三浦義村に使者を送り、自らを将軍にするよう計らえと命令した。

だが、義村は公暁に同心せず、北条義時に彼の動向を注進し、最終的には討つことになる。