出る杭は打たれた…突然の粛清人事
「前田さん、製造部技術課からマーケ部に本日付で配属されました坪井純子と申します。どうぞよろしくお願いします」
「実は俺、もうすぐ出るんや」
「エッ……」
現在、キリンホールディングス常務執行役員・人事総務戦略担当の坪井純子が、前田仁と初めて言葉を交わしたのは90年3月21日。前田の異動に、坪井は驚きを覚える。
一番搾りは、90年3月22日に発売された。流通からの仮受注、さらには市場調査から、ヒットするのは確実と発売前にわかっていた。なのに、前田は左遷されてしまう。
異動先は、規模の小さいワイン部門。花形である新商品開発のリーダーを外され、存在感の薄いワイン部門へ。誰の目にも「左遷」と映る人事だった。前田は40歳になったばかり。しかも彼はワインの門外漢。急な発令だった。
成果を上げたのに、なぜこんな人事が起こるのか。
「(コンペに負けた)ラスプーチンが、前田さんへの嫉妬から人事部を動かして前田さんを左遷させた」
「当時、営業部とマーケティング部は険悪な関係にあり、マーケ部で頭角を現していた前田さんを、営業部が切った」
どちらも事情に通じたキリン関係者の証言だ。が、いずれもはっきりした証拠はない。
ただし、もう一つ重要だったのは、前田の後ろ盾だった桑原である。このとき、常務大阪支社長だった桑原は、90年3月に3期6年の任期を終える本山に代わり、社長になるはずだったのが、なれなかったのだ。
スーパードライに押されたキリンは前年の89年、22年ぶりにシェア50%を割りこみ48.8%で着地する(ちなみにアサヒは24.2%)。これを憂いた本山は、1期2年の社長続投を決めてしまう。キリンは組織を重視する三菱グループの会社であるため、不規則なトップ人事は異例だった。
桑原が社長になる芽は消えてしまい、突如として前田は飛ばされる。「出る杭は打たれた」形だが、桑原派の若手実力者が粛正されたとも言えよう。
当の前田は、左遷人事に対しても不平も不満も漏らさなかった。いつも通りに飄々としていたそうだ。そればかりか、腐ることはなく独学でワインの猛勉強を始めていく。
しかし、さらに追い打ちをかける人事が、その3年後に前田を襲う。今度は子会社の洋酒メーカーへの出向を命じられたのである。
前田チームがつくった一番搾りは大ヒットし、スーパードライの勢いを止めていた。本来なら、その成果から実力を評価され、高い地位に抜擢されても不思議ではなかった。なのに、前田は執拗に外されていった。
いつも自然体な前田も、出向人事のときにはさすがにショックを受ける。同期入社で技術系の松沢幸一(後にキリンビール社長)と場末の飲み屋に入り、前田は言ったそうだ。
「キリンは、なんて酷いことをする会社だろう……」、と。
松沢は「やけを起こさず我慢してくれ。いつかきっと、会社が前ちゃん(前田)を必要とするときが来るから」と、慰めたそうだ。
最年少部長として返り咲き
一番搾りの攻勢により、一時は勢いを失ったアサヒ。しかし、プロパー社長が誕生すると、94年頃からスーパードライに経営資源を集中させた“一本足打法”により再び盛り返し、シェアをアップさせていく。
気がつけば、キリンがアサヒに逆転されるのは時間の問題と思われた。
96年春にキリンの社長に就任した佐藤安弘は、発泡酒の商品化を就任時に決断する。社外秘で進められたプロジェクトだったが、遅々として開発は進まない。
にもかかわらず佐藤は、97年9月の記者会見で「発泡酒を98年早々に発売する」と発言してしまったのだ。“口を滑らせた”ようでもあった。
何もできていないのに、発売まで4カ月しかない。しかし、商品をつくらなければ、消費者からも株主からも厳しく指弾されてしまう。
「もう、あの男しかいない」
86年から97年までの12年間で、キリンは実に47もの新商品ビールを発売した。そのうち、現在でも販売しているのは4つ。最も売れたのが一番搾り、次に続くのがハートランドであり、いずれも前田の作品だった(ちなみに他の2つは、期間限定の秋味、プレミアムのブラウマイスター)。
97年9月末、前田はキリン本社に突然、呼び戻される。
しかも、約50人が所属する商品開発部(マーケ部)の部長として。このとき47歳。40代の部長は前田ひとりだった。
佐藤は実績のある前田に、発泡酒開発を託したのだった。
本社に復帰したときの前田の職能資格は副理事。本来、理事にならなければライン部長には就けない決まりだったが、佐藤は人事のルールを曲げて前田を登用する。基本給も成果給も一段高い理事に前田が昇格するのは、この半年後となった。
ワイン部門への異動から数えて7年半、前田の長い雌伏の期間が終わった。