なぜロッキード事件で罪に問われたのか

【池上】さっきの本の描写にあるように、何かあると「今の時代に角栄がいれば」という話になるわけです。その田中角栄が罪に問われ、裁判にかけられたというのは、どういうことなのだろう。たぶん、ロッキード事件と聞いて、そんな気持ちを持つ人たちも少なくないのだと思います。

簡単に振り返っておくと、この事件の発火点はアメリカでした。1976年2月に、上院外交委員会多国籍企業小委員会、委員長の名を取って通称「チャーチ委員会」の公聴会で、ロッキード(現ロッキードマーティン)社のアーチボルド・コーチャン副会長が、自社の航空機を売り込むために総額30億円の賄賂を日本の政界にばらまいた、と証言したんですね。田中角栄には、総理在任中に口利きの報酬として5億円が渡っていました。

【佐藤】賄賂は、右翼の大物児玉誉士夫、ロッキードの代理店丸紅、そして全日空の三つのルートで流れました。角栄が受け取ったのは「丸紅ルート」です。児玉誉士夫は、キーマンでありながら結局逃げ切りましたよね。病気を理由に国会にも出てこなかったし。

写真=時事通信フォト
1972年に撮影された田中角栄元首相(1918-1993)のポートレート

ひとことで言えば、田中角栄はちょっとやり過ぎた

【佐藤】ロッキード事件は、角栄が首相を降りてから発覚しました。74年暮れに退陣を表明した直接の原因は、「田中金脈問題」でした。

【池上】今でいう「文春砲」を浴びたのですが、スケールが違った。その年の10月に発売された月刊『文藝春秋』にジャーナリストの立花隆と児玉隆也の合計60ページに及ぶルポが掲載されたんですね。前者は角栄の資産形成の手口を、後者は角栄の秘書で、田中の後援会・越山会の「金庫番」と言われた佐藤昭との関係などを暴いたものでした。

角栄自身は、佐藤昭という存在が書かれてしまったことの方に、より衝撃を受けたと言われています。金脈問題は、そんなにたいしたことではないだろうと高をくくっていた。

【佐藤】日本のメディアもあまり騒がなかったのです。当時の「政治とカネ」の状況からすれば、「さもありなん」という感じだったから。

【池上】そうです。政治の世界では、今では信じられないくらい露骨に「実弾」が飛び交っていました。例えば、当時、中選挙区の群馬三区には、中曽根康弘、福田赳夫、小渕恵三がいました。選挙が始まると、それぞれの事務所の横に、毎回プレハブ小屋が建つんですね。そして、そこで支持者たちに食事を提供する。「福田食堂」「中曽根レストラン」などと呼ばれていて、「ただ飯」を食わせるのです。もちろん、立派な選挙違反ですが、群馬県警は知らん顔(笑)。そんな光景が、全国津々浦々に広がっていました。

【佐藤】選挙は「祭り」の感覚でしたからね。祭りに御祝儀はつきもの(笑)。政治家が多少汚いやり方で金を作るというのも、ある程度、許されていた。

【池上】ところが、あにはからんや、角栄は十月末の外国人記者クラブの会見で金脈問題の質問攻めに遭い、翌日各紙が記事にした。その結果、一気に風向きが変わって、内閣総辞職に追い込まれてしまったわけです。まあ、ひとことで言えば、田中角栄はちょっとやり過ぎた。