領主がめまぐるしく入れ替わった会津藩史

もう1つ、武士の中の武士と言われ、幕末、薩摩藩と戦った会津藩の教育についても紹介しよう。

保科正之像(写真=DIGITAL The Asahi Shimbun Company./CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

会津藩松平家の祖は保科正之である。ただ、その入封以前の50年間、領主はまことにめまぐるしく入れ替わった。中世以来、会津の地を支配していたのは蘆名あしな氏だったが、天正17年(1589)に伊達政宗がこの地を占領した。しかしその政宗も翌年、小田原平定に遅延したことから豊臣秀吉に会津を没収された。秀吉は同年に蒲生氏郷を会津に入れた。氏郷は居城を黒川に定め、同地を若松と改称して城下町の建設をはじめた。

だが、氏郷の死後、その子秀行は13歳で家督を継いだが、重臣間の抗争を咎められて石高を大幅に減らされ、宇都宮へ領地を移された。代わって秀吉から会津を付与されたのは上杉景勝だった。景勝は会津を中心に120万石を有する大大名となり、五大老として豊臣政権をささえた。ところが慶長5年(1600)、徳川家康と敵対、関ヶ原合戦後は米沢30万石へ移封され、蒲生秀行が60万石の大名として旧領会津へ戻った。

徳川家光と異母弟の保科正之の篤い信頼関係

ところが、慶長17年に秀行が没すると、幼君忠郷のもとでまたも家中騒動が勃発、寛永4年(1627)、蒲生氏は減封のうえ伊予松山へ移された。次に会津を領したのは加藤嘉明であったが、嘉明は寛永8年に没した。子の明成が家督を相続すると、やがて重臣の堀主水ほりもんどと激しく抗争するようになり、寛永20年、なんと自ら会津40万石の返上を幕府に願い出たのである。

このため会津は保科正之に付与されることになった。

正之は、将軍徳川家光の異母弟(秀忠の側室の子)である。だが、父の将軍秀忠は恐妻家で、正室のごうが側室を持つことを許さなかったので、生前、我が子と認知されなかった。

このため正之は高遠2万5千石を領する保科正光に養育され、その後を継いで藩主となった。やがて異母弟がいることを知った将軍家光が正之を優遇し、山形藩主(20万石)に抜擢、次いで会津23万石を与えたのである。家光の正之に対する信頼はいよいよ深くなり、自身が死去するさい、11歳の我が子家綱(4代将軍)を補佐してくれるよう、正之に強く依願。正之はその死に至るまで、老中たちと幕政を主導した。